建武の新政(編集中)

出典: Jinkawiki

目次

建武の新政

1333年5月に、鎌倉幕府を滅ぼしてから、1336年(建武3年)10月に足利尊氏に降伏するまでの、後醍醐天皇による政治である。

新政が行われた背景

後醍醐天皇が理想とした政治は、醍醐・村上天皇による、平安中期の延期・天暦頃の政治である。

延期・天暦の頃は院政が無く天皇親政であり、何よりも幕府のような適性政権は存在しなかった。 従って、後醍醐天皇がまず行うべきことは、院政の廃止と鎌倉幕府の倒幕であると考えた。


1321年、後醍醐天皇は、父である後宇多天皇による院政のもとに行われていた朝政を天皇に返させ、新政を開始する。 まず、訴訟全般の処理に当たる役所である「記録所」を再興し、その最終決裁の権限を天皇に帰属させた。 後醍醐天皇は、記録所の設置によって、自らがすべての政務をみるという姿勢を表明した。

新政の開始

鎌倉幕府の討幕を試みた「元弘の変」により後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐島に配流され、替わって幕府に擁立された光厳天皇が即位した。

討幕後、後醍醐天皇は光厳天皇の即位を廃止し、光厳天皇が署名した詔書や官位の無効を宣言し、関白を廃止した。 また、敵対者の所領、幕府建立の寺院領を没収した。


入京すると、所領の安堵・移動はすべて綸旨による、という綸旨絶対の政治を、腹心の武士で構成した「記録所」・「恩賞方」を通じて推進した。 この恩賞は、貴族・寺社優先であり、討幕成功の原動力となった武士階級全体に強い不満を残した。 さらに諸国の一宮・二宮の本家を廃止し、国分寺と共に天皇の直轄とした。 一方、京都の軍事警察を担当するものとして、「武者所」をおき、新田義貞を長官に任命した。


地方行政では、まず知行国の制を廃止し、諸国には政府が新しく国司置き、高位の貴族を任命した。同時に鎌倉幕府の制度である守護を引き続き設置し、警察権を与えた。 また、軍事的な要地である関東に「鎌倉将軍府」を置き、成良親王を派遣して足利直義を補佐とし、奥州には「陸奥将軍府」を置き、義良親王を派遣して北畠顕家を補佐とした。


これまで武士が伝統的に保有してきた所領の知行権を新たに天皇の裁可によって安堵しなおすという方針をとった。所領の所持に不安を抱く武士達が、安堵の綸旨を求めて京に殺到し、新政は早くも障害に出くわした。 こうした中、新政府のどの機関にも参加していないものの、清和源氏の血をひく関東の豪族武士の嫡流であった足利尊氏は名声が高く、尊氏の下に集まるものも多かった。

これに対し、後醍醐天皇は敵対者の範囲を北条一族に限定し、所領の裁決権を持つ「雑訴決断所」を設け、旧幕府の官僚を採用した。 訴訟の激増による裁判の混乱により、雑訴決断所の機能を大幅に広げざるを得なくなり、綸旨の権威は低下し、社会は混乱した。


1334(建武元)年、後醍醐天皇はその権力の誇示のため、大内裏造営に着手するが、財源不足のため銭貨(乾坤通宝)を鋳造した。また、地頭得分の20分の1を造営費として徴収した。全くの貴族本位の政策である。 その結果経済不安を招き、地方武士は経済的負担の増大に悩み、政府に対しての反感が一層高まった。


親政の崩壊

新政府への不満が高まるころ、武士の層の要求を取り上げたのが足利尊氏であった。 尊氏は六波羅探題を攻め入った後、自らの奉公所を京都に開いた。 1334年11月、尊氏は後醍醐天皇に助言し、当時征夷大将軍であった護良親王を幽閉することに成功する。

その頃、鎌倉幕府最後の執権であった北条高時の子、北条時行が西園寺公宗と結び、信濃で挙兵をし、鎌倉に攻め入った。足利直義はこれを支えきれず、護良親王を殺害して、三河に逃れた。(中先代の乱

尊氏は時行討伐のため、勅許を得ずに出京し時行を討って鎌倉を奪い返すが、そのまま鎌倉に残り、新政府に反旗を翻す。 後醍醐天皇は武者所を新田義貞一族で固め、対抗したが尊氏軍に敵わず、後醍醐天皇が比叡山に追い出され、建武の新政は崩壊した。


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