日中国交回復

出典: Jinkawiki

田中角栄が成し遂げた最大の功績は、日中国交回復であった。それも総理になってわずか2カ月で実現したのである。

第二次世界大戦後、中国大陸を支配していた中華民国政府は、中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃げた。

大陸では中国共産党が中華人民共和国を樹立した。日本は1952年(昭和27年)、台湾の中華民国と「日華平和条約」により国交を結んだが、中国大陸の中華人民共和国とは国交を結んでいなかった。いかにも不自然な状態が続いていたのである。歴代の自民党政権は台湾との関係が深く、中華人民共和国と国交を結ぶことができなかった。

日本の外務省もまた、台湾重視の政策をとっていて、田中の中国訪問に反対していた。田中は、自分の方針に反対する外務省幹部をやめさせてまで、中国訪問を決行する。

1972年9月25日、田中は中国を訪問した。北京では当時の周恩来首相との会談に臨み、激論の末、日中共同声明を発表した。中国との戦争状態が正式に終わりを告げた。正式な日中平和友好条約が結ばれたのは、それから6年後のことである。

日中共同声明では「日本は中華人民共和国を中国の唯一の合法国家と認める」「中国は戦争中の損害について日本に賠償請求しない」ことなどが盛り込まれていた。日本は台湾との縁を切り、中国を選んだのである。

これ以後、中国政府は、「井戸を掘った人のことは忘れない」と表現して、田中を大切に扱う。田中がロッキード事件で逮捕され、裁判の被告になってからも、日本を訪問した中国の鄧小平が目白の田中邸を尋ねるなど特別扱いをしている。

「田中真紀子は親中派」と呼ばれるのは、こういう経緯があるからなのである。

日中国交回復を記念して、この年の11月、中国からカンカン、ランランのパンダが贈られた。それまで日本人のほとんどは、この動物のことを知らなかった。上野動物園での初公開の日には5万6000人が殺到し、パンダブームとなった。


参考文献

○池上彰(2008)『そうだったのか!日本現代史』集英社文庫

○後藤武士(2009)『読むだけですっきりわかる政治と経済』宝島社


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