日本書紀

出典: Jinkawiki

日本書紀

天武3~6年頃 天武天皇が稗田阿礼に「皇帝の日継」(「帝紀」)と「先代の旧辞」(「旧辞」)誦み習わせる。

天武10年(681) 天武天皇が川嶋皇子らに「帝紀および上古の諸事」を記し定めるように命じる。

朱鳥元年(686) 天武天皇没す。この頃に阿礼の仕事はほぼ完成していた。

慶雲2年(705) この頃、舎人親王が「日本書紀」制作の責任者になる。

和銅4年(711) 元明天皇が阿礼がまとめた「旧辞」を太安万侶に書き記させる。

和銅5年(712) 『古事記』が完成する。

和銅7年(714) 紀清人と三宅藤麻呂が「日本書紀」作製の担当者に加わる。

養老4年(720) 舎人親王らが「日本書紀」を完成させて元正天皇に差し出す。

『日本書紀』によると、天武天皇が歴史書の編纂を命じたのが天武10年(681)のこと。このとき、天皇は川嶋皇子ら6人の王族と上毛野三千ら6人の官人に命じて、「帝紀および上古の諸事を記し定め」させた。

すでに、天武元年(672)、天皇の命により、稗田阿礼が『古事記』編纂に向けて、「旧辞」「帝紀」の整理をスタートさせていた。天武天皇は、稗田阿礼がまとめた史書(『古事記』の原型)で朝廷のおおまかな歴史を把握し、そのうえで『日本書紀』の編纂を命じたものと思われる。

川嶋皇子らの作業がひととおり進んだことで、朝廷は豪族の系譜を把握することが可能となり、天武13年(684)の「八色の姓」の制定など、対豪族政策を着々と行うことができるようになった。

しかし、川嶋皇子らの手による歴史書は、国の公式な史書とするにはまだ不十分であったとみなされたのだろう。天武天皇の崩御後も、改訂が続行された。持統天皇の代になっても、有力豪族に伝わる記録「墓記」を提出させ、参照するといった作業があったとみられる。

元明天皇の代となった和銅3年(710)の藤原から平城への遷都の前後、中央集権国家をつくるための動きが活発化する。それに伴い、『古事記』『日本書紀』編纂作業も完成に向かっていった。元明天皇は、この時期、『古事記』のとりまとめを太安万侶に命じる一方で、『日本書紀』編纂スタッフも再整備している。『日本書紀』が完成したのは養老4年(720)、元明天皇の次の元正天皇の代になってからのこと。最終的なとりまとめは、天武天皇の子・舎人親王が行った。実に40年にわたる大事業だったといえる。


参考文献

・『古事記と日本書紀』 武光 誠著 株式会社ナツメ社 2008年8月10日発行


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