日本海海戦

出典: Jinkawiki

開戦

 ペリーの来航以来海軍建設に力を注いだ日本は、日清戦争の勝利後、対露戦争に備えて海軍を急速に拡張し1904年2月の開戦時には戦艦6、装甲巡洋艦6、軽巡12などからなる近代的艦隊を保有した。
 ロシア太平洋艦隊は戦艦7、装甲巡洋艦4、巡洋艦6などで、開戦時の旅順に対する日本の奇襲攻撃、同年8月10日の黄海海戦、同月14日蔚山沖海戦などで減退し、旅順港内に封じ込められた。形成挽回をはかるロシアは10月にバルティック海から「第2太平洋艦隊」を派遣したが、回航中の1905年1月旅順は陥落し、第2太平洋艦隊が太平洋艦隊と合同して優勢を回復する望みは失われた。
 だがロシア政府は帰還を命じす、老朽艦を集めた第3太平洋艦隊を追加派遣した。ヴェトナムのカムラン湾で合流した第2、第3太平洋艦隊はウラジオストクに向かおうとし、5月27日未明、対馬海峡の西側で哨戒中の信濃丸に発見された。朝鮮半島南岸の鎮海湾に主力を待機させていた連合艦隊は戦艦4、装甲巡洋艦8、巡洋艦14など107隻で迎撃した。対馬海峡を南下した連合艦隊は午後1時40分、北上するロシア艦隊を視認、これを東側に見ながらすれ違う形となったが、2時10分、旗艦「三笠」を先頭にした日本艦隊は左にほぼUターンをし、ロシア艦隊のやや前方を平航する形として、距離6400mで射撃を開始した。
 砲の発射速度、命中率、砲弾の爆発力、艦隊速力などの要素で優勢の日本艦隊は日没までの砲戦で相手の戦艦8隻中4隻を撃沈したほか、他にも大損傷を与えた。さらに夜間の駆逐艦、水雷艇の魚雷攻撃で戦艦2隻、装甲巡洋艦1隻を沈めた。翌28日午前10時30分、残存ロシア艦隊は竹島付近で再び日本艦隊に発見され降伏した。ロジェストヴェンスキー中将は前日旗艦スウォーロフ沈没前に重傷を負い駆逐艦に移乗していたが、これも捕獲され捕虜となった。

日本海海戦の結果

 外国では“バトル・オブ・ツシマ”と呼ばれるこの海戦でロシアは戦艦8隻中6隻沈没、2隻捕獲、装甲巡洋艦3隻は全て沈没し、計撃沈19、捕獲5、中立国へ逃げ込み抑留4、戦死5000人、捕虜6100人などの潰滅的打撃を受け、ウラジオストクに着いたのは巡洋艦1、駆逐艦2だけであった。これに対し日本の損害は水雷艇3隻、死傷者700人だった。
 海鮮史上これほど徹底的に勝負がついた例は稀である。非白人国が当時の最先端技術を集めた艦隊の決戦で欧州の大国の艦隊を撃滅したことは、1571年のレパント海戦でキリスト国連合艦隊がオスマントルコの艦隊を破ったと同様、世界史上の意味が大きい。

参考文献

尾形勇ら編集『歴史学事典 第七巻 戦争と外交』(1999)東弘社
藤野保ら編集『日本史事典(普及版)』(2012)朝倉書店



(執筆:ちひろ)


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