日蘭関係の歴史

出典: Jinkawiki

国交の始まり~江戸時代

 オランダと日本の国交の歴史は、約400年前の1600年まで遡ることができる。当時オランダは大航海時代を迎え、世界中に目を向けて動き始めていた。そんな中、一隻のオランダ船「デ·リーフデ号」が豊後国(今の大分県)に漂着し、時の権力者である徳川家康がこれを手厚くもてなした事から両国の国交が始まった。リーフデ号の乗組員であったヤン·ヨーステンとウィリアム·アダムズはその後江戸幕府に重用され、彼らの働きによって日本とオランダとの間に朱印船貿易が開始された。また、オランダは日本に対して貿易関係を求め、キリスト教布教には一切関与しないという事が幕府にとっても都合が良く、日本が鎖国政策をとった後も貿易関係を続けた唯一の西洋国家である。  この頃、日本における第一外国語は英語ではなくオランダ語であり、オランダ語を通して学ぶ学問である「蘭学」が確立された。主な蘭学者には杉田玄白や前野良沢などがおり、「解体新書」のような多大な学問の成果を成し遂げた。また、シーボルトの鳴滝塾や芝蘭塾、緒方洪庵の適塾などの蘭学塾がつくられ、医学·天文学·物理学·用兵術などの様々な学問が学ばれた。

明治~現在

 明治期に入り、日本が開国によって米英露などの国とも通商を始めた事から、日本におけるオランダの地位は下がったが、両国の親密な関係は続き、オランダは日本の近代化を支えた。ところが、第二次大戦期に日本の「大東亜共栄圏構想」の実現のため、日本軍は当時オランダの植民地であったインドネシアに侵入した。2カ月の戦いの後、オランダ軍は降伏し、約4万人の兵隊が捕虜として収容所に入れられ、そこに住んでいた住民は長崎や北九州の炭鉱での強制労働を強いられた。この頃が、歴史の中で唯一オランダと日本の関係に影を落とし、両国の国民の心に傷を残した時期である。  戦後、1952年にオランダと日本は国交を正常化し、切り花が輸入されたり、ブルーナの「ミッフィーちゃん」が多くの日本人の心を掴んだ。1992年に長崎県の佐世保にオープンした「ハウステンボス」は、オランダ国王の宮殿である「ハウステンボス宮殿」にちなんでつけられた名前であり、オランダの有名な建物が原寸大で建ち並んでいる。  また、オランダから日本に伝わった言葉は現在の日本語でも使われており、ビール·ガラス·コーヒー·おてんばなどの言葉はオランダ語の発音を真似たものである。


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