日露戦争4
出典: Jinkawiki
目次 |
戦争まで
日露両国が韓国・満州の支配をめぐって戦った戦争。1900(明治33)年義和団の乱鎮圧を契機にロシアは満州地域を事実上占領し、日本と対立。1902年日英同盟締約後にロシアは満州地域からの撤兵を始めたが、1903年は言って撤兵を中止し旅順を中心に軍事力を増強した。日本国内では、軍や国家主義グループの間に対露強硬論が高まり、世論も急速に主戦論に転じた。8月からの外交交渉も日本側が要求する朝鮮支配は保証されず、1904年2月8日陸軍部隊から仁川に上陸を開始し、連合艦隊は旅順港外でロシア艦隊を攻撃して日露戦争は開戦した(10日宣戦布告)。
開戦後
9月遼陽、10月沙河を激戦の末に占領、8月以降の旅順攻囲戦では夥しい戦傷者を出し、1905年1月開城させた。3月の奉天の会戦は日露両軍が総力を結集して戦い。ロシア軍は退却したが、この戦闘を機に日本側は動員力、軍事費調達でも限界に達し、アメリカを介して講和への模索を始めた。ロシア側も、戦争にともなう物価高騰により労働者の生活は窮迫し、1904年末から各地でストライキが起こり、1905年1月民衆の請願デモへの発砲事件「血の日曜日」を契機に革命的状勢を呈した。
講和条約
ロシアも5月日本海海戦でバルティック艦隊の壊滅的な敗北を機に講和に応じ、アメリカのポーツマスで8月講和会議が開かれ、9月に調印。内容は、ロシアが日本による韓国の支配権を認め、樺太南半の割譲、清国から獲得していた旅順・大連の租借権や東支鉄道支線の譲渡、沿海州沿岸の漁業権を日本に認めるなど。調印当日、東京では講和内容が賠償金はなく領地の割譲も少ないことへの不満から暴動が起こり、全国各地で講和反対の運動が広がった。
日露戦争から
日本では大増税と巨額の国債発行、100万の兵士動員など、国力を上げての戦争体制をとり、過重な負担に耐えてきた国民の間に不満がうっ積していた。また日本は英米両国から、ロシアは仏・独両国からの巨額の外債によって戦争が遂行されたことに象徴されるように日露戦争は東アジアにおける列強の利害対立を背景にした代理戦争の側面も担っていた。日本の勝利はアジア諸地域の民族運動に刺激を与えたが、日本が朝鮮を保護国とし満州地域の独占的市はを強めたため日本への期待感は急速に後退し、また日本を支持してきた英米領国も警戒を強めるなど、日本をめぐる国際環境は複雑化した。
参考文献
尾形勇ら編集『歴史学事典 第七巻 戦争と外交』(1999)東弘社
藤野保ら編集『日本史事典(普及版)』(2012)朝倉書店
(執筆:ちひろ)