源義仲
出典: Jinkawiki
源(木曽)義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男であり、源頼朝・義経とはいとこにあたる。木曽に住んでいたので木曽義仲とも呼ばれる。 義仲の前半生に関しての史料はほとんどない。父・義賢は兄・源義朝との対立により大蔵合戦で討たれる。義仲殺害の命がでるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)へのがれる。
1180年、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、全国の源氏に挙兵を呼び掛ける。義仲も同年挙兵して北信の源氏方救援(市原合戦)に向かい、父の旧領である上野国へと向かう。翌年の治承5年、越後から攻めてきた城助職を千曲川横田河原の戦いで破り、そのまま北陸道を進む。平教盛の追討軍と対峙しつつ、北陸地方を平定する。寿永2年、越中国と加賀国の境の砺波山・倶利伽羅峠の戦いで、追討のために京都から派遣された平維盛軍と激突。山中で義仲軍が角に松明をつけた牛を放って夜襲をかけ、平氏軍を敗走させ、勢いそのままに京都へ進軍し、入京する。1184年、義仲は征夷大将軍に任命される。 京へと入った義仲の軍勢が京でみたものは、連年の飢饉(養和の大飢饉)に苦しみ、廃墟と化した姿であった。にもかかわらず、もともと寄り合い所帯な軍勢のため統制が行き届かない義仲軍は、都での略奪、暴行、青田刈りを内外で繰り広げた。京の貴族たちの不興を買い、義仲追放の声が上がる中、後白河法皇は京にとどまり続ける義仲に対して激しく平氏追討を迫り、鎌倉の頼朝へは即時上洛を要請するなど、政治力を発揮する。義仲は失った信頼の回復や、兵糧の確保のため、平氏追討に出陣するが、西国での苦戦が続いていた。 頼朝は後白河上皇の要請に対し、北方の藤原秀衡の脅威と機内の飢饉を理由に上洛の無期限延期を願い出る一方、「東海・東山・北陸三道の国衙領と荘園はもとのように国司と本所に返還せよ」との勅令発布を要請した。全国的内乱の後、国衙や荘園から年貢が届かず、打ち続いた凶作と飢饉で苦しんでいたため、朝廷はすぐさま勅令を発した。この命令の実行は頼朝一人の手に一任されていた。大義名分を得た頼朝は源範頼・義経らを派遣し、「年貢上進」という名目を立てて軍を進め、義仲追討へと向かう。 寿永3年(1184)、自らを征夷大将軍に任命させる。範頼・義経率いる鎌倉軍が迫るなか、平氏との和睦工作や後白河法皇を伴っての北国下向などを模索するが、鎌倉軍が目前に迫っていたこともあり、開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、後白河法皇の幽閉など一連の行動によって信頼を失っていたためつき従う兵も少なく、宇田川、瀬田での戦いに惨敗した。数名の部下とともに落ち延びた義仲だったが、近江国粟津での戦いで討ち死にした。享年31歳。
参考文献 ・面白いほどよくわかる日本史 鈴木 旭 著 日本文芸社 ・日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会 編 山川出版社 ・源義仲 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2
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