福島正則
出典: Jinkawiki
福島正信の長男。一説によると、星野成政の子で、福島正光の養子になったと言われる。永禄4年(1561)~寛永元年(1624)
生涯
豊臣秀吉、子飼いの猛将。秀吉の親戚にあたり、幼いころから秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いでは一番槍、一番首の功績をあげ、「七本槍」の筆頭と言われるほどの活躍をする。 秀吉が天下人になる過程で、石田三成をはじめとする近江出身の官僚が台頭すると、尾張出身の武将たちはこれを激しく憎んだ。いわゆる文治派と武断派の対立である。正則も例外ではなく、武断派の急先鋒として三成憎しの念を強めた。それは秀吉の死後、加藤清正らと共謀して三成を襲撃するという事件に発展する。このとき三成が武断派の頭ともいうべき徳川家康を頼ったため、争いは収まったが武断派、文治派の溝は深まるばかりであった。このころから家康は天下取りに向けて、多方面に手を打ち始めるのだが、三成憎しに凝り固まった正則にはその動きが見えていなかった。 家康の上杉家討伐にも参加。その行軍中に三成が挙兵したとの情報が入ると、この先をどうするかという評定が行われた。参加した多くは豊臣家恩顧の武将たちだったため、秀頼の名を掲げる三成を討つとはなかなか言えない。このとき声をあげたのが正則だった。「秀頼様の挙兵というが、これは三成の策謀。この正則は内府(家康)にお味方する」 この正則の発言は場の雰囲気を一変させ、そこにいた誰もが家康に従うことになった。 その後の関ヶ原の戦いでは先鋒として宇喜多軍と死闘を繰り広げ、東軍の勝利に大きく貢献した。これにより家康は天下人になるのだが、そのことが晩年の正則に暗い影を落とす。大坂の陣では江戸城に留め置かれ、豊臣家が滅ぶのをただ見ているしかなかった。 最期は、無許可で城の改修をしたといういいがかりのような罪状で安芸、備後両国を没収され、蟄居したまま没した。享年64歳。
参考文献
小池徹郎編 「グラフィック図解 関ヶ原の戦い」 2009年9月 学習研究社 M.S