福沢諭吉
出典: Jinkawiki
福沢諭吉の生涯
福沢諭吉(1834年~1901年)は大阪中津藩蔵屋敷で誕生した。諭吉の父は廻米方で、彼が1歳の時に病気で亡くなってしまった。諭吉は幼いころから迷信や不合理なことは信じようとはしなかった。この姿勢は、後に実用の学問を尊重する実学の精神や慶応義塾の教育へとつながっていった。そして、我が国の国民の無知を開化する啓蒙思想家として名を残すに至る。19歳の時には長崎に遊学し、そこで蘭学を学ぶ。20歳で緒方洪庵の敵塾に入門し、2年後には敵塾の塾長となり、多くの原書を読む。翌年は中津藩の命令によって江戸築地に蘭学塾を開く。後、蘭学から英学へと転向。29歳で幕府の外国方翻訳局に出仕し、31歳で西洋事情を刊行する。明治元年、諭吉が33歳の時には、塾を芝(後に三田へ)に移して慶応義塾と改称する。その後、「学問のすすめ」や「文明論之概略」、「福翁自伝」などの著書を残す。また、彼は明六社結成にも参加している。
少年時代の合理主義的思考
諭吉は、年寄などの話にする神罰冥罰などということは大嘘だと、ひとり自ら信じきっていた。そのため、いなり様を見てやろうという野心を起こして社の中には何が入っているかと開けてみたり、その中に入っている石を売って、代わりの石を拾って入れておいたりということをしていたという。また、隣家の下村という屋敷のいなり様をあけてみれば、神体は木の札で、これを取って捨ててしまうと、その後初午の日になり、皆が幟(のぼり)を立てたり太鼓をたたいたりお神酒を上げてワイワイとしているから、それを見ておかしがっていたという話もある。このように諭吉は幼少のころから神様がこわいだの仏様がありがたいだのということはちょっともなかった。うらないやまじない、一切不信仰で、キツネタヌキがつくというようなことは初めからばかにして少しも信じなかった。子供ながらもその精神はカラリとしたものであった。
諭吉の思想
長い鎖国の時代に日本は西洋にかなりの遅れをとったことを知った諭吉は、生来の旺盛な好奇心で、学問・西洋への関心を高め、漢学や蘭学、英学を学び、渡米を2回、渡欧を1回行う。そして日本国民一人ひとりが西洋文明を学ぶことの必要性を痛感し国民の無知の闇に光を投げかけることに専念していった。諭吉は人間の理性を重んじて、伝統的な権威や習慣を破り、生活や社会制度を見直そうとする啓蒙活動に努めることとなる。その中で、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で知られる、人間は生まれながらにして平等であるという天賦人権論を展開していく。これは『学問のすすめ』という著書にある言葉で、アメリカ独立宣言の一節を訳したものと言われている。身分社会が続いた我が国においてこの言葉は多くの関心を集め、真偽版合わせて22万冊が売れた。160人に1人が読んだ勘定になるという。また「独立とは、自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきをいう」とした独立自尊や「一身独立して一国独立する」といった脱亜論の考え方もあらわしていく。この脱亜論では、日本を近代国家にしたいという思いが感じられる。一国が独立するためには一身が独立することが必要である。学問を修める目的は国においては文明を築くことである。西洋の文明をモデルとして、明治という新しい時代を迎えた日本が、西洋の先進国家に肩を並べられるように発展することが福沢の願いであった。実用的な西洋の学問である実学のすすめといった学問の奨励・教育活動(慶應義塾創設)もしていき、新しい平等社会をつくるためには、国民一人一人が学ぶこと、それも実際に役立つ実学を重んじた。
参考文献
倫理資料 東京法令出版