窓ぎわのトットちゃん2
出典: Jinkawiki
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窓ぎわのトットちゃん
黒柳徹子による自伝的物語。1981年出版。
黒柳徹子
1933年8月9日、東京乃木坂生まれ。この本の中では、「トットちゃん」。父はヴァイオリ二ストでNHK交響楽団でコンサートマスターを務めたことのある黒柳守綱。小学校1年生の時に問題児であるとされ、退学を命じられる。そして、トモエ学園に入学する。トモエ学園から英国系ミッションスクール香蘭女学校を経て、東洋音楽大学(現在の東京音楽大学)の声楽科を卒業。絵本や童話を上手に読めるお母さんになりたいと思い、NHK放送劇団の試験を受け合格。1976年に放送を開始した、自身のトーク番組である「徹子の部屋」(テレビ朝日系列)は、2011年にギネス世界記録(同一の司会者による番組の最多放送回数)に認定された。今もなお、放送は続いている。1984年に、ユニセフ親善大使に任命される。社会貢献活動として、日本ろう者劇団に対する技術的財政的支援も行っている。パンダ保護にも積極的であり、日本パンダ保護協会名誉会長を務めている。
トモエ学園
現在の東京都目黒区自由が丘にある、東急東横線の自由が丘駅から徒歩3分ほどのところに存在していた。校長は小林宗作で、完全なものとして学校を始めたのは1937年である。空襲で学校が燃えてしまうまで、8年という短い間ではあったが、戦時中にあれだけ自由な学校が生き残れたのは、校長が宣伝嫌い、今でいうマスコミ嫌いであり、戦前でも、写真を撮らせたり、「変わった学校ですよ」と宣伝することがなかったからではないかと、黒柳徹子はあとがきで語っている。全校生徒は50人足らずであり、トットちゃんが転入した当時の同級生(1年生)はわずか9人であった。電車車両を校庭に並べ、それを教室として授業を行っていた。また、リトミック教育を日本で初めて取り入れた学校でもある。
内容
黒柳徹子(トットちゃん)が、小学校1年生でトモエ学園に転入した時から、トモエ学園の校舎が空襲によって焼けてしまうまでを61節にわたって綴っている。目次の1ページ前には、「この本を、亡き小林宗作先生に捧げます。」とある。あとがきでは黒柳徹子のトモエ学園での思い出や小林宗作校長のこと、母親のことなどが書かれている他に、トモエ学園の電車の教室で共に旅をした(学園生活を送った)仲間がその後どうなっているのか、わかっている範囲で簡単に書かれている。表紙・裏表紙・挿絵はいわさきちひろ。
参考文献
・窓ぎわのトットちゃん 黒柳徹子 講談社 1981年
トットチャンネル
国際連合広報センター 主な活動 黒柳徹子さん
テレビ朝日 徹子の部屋
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