藤原 不比等
出典: Jinkawiki
●生没年
659(斉明5)~720(養老4)
●系譜
中臣鎌足の次男。母は車持君与志古娘(よしこのいらつめ)(公卿補任・尊卑分脉)。但し『興福寺縁起』によれば母は鏡王女(天智に召され、のち鎌足の正妻となる)。分脉の不比等伝に「公(おほやけ)避くる所の事有り」(出生の公開に憚られるところがあった)とあり、天智落胤説の根拠とされている。同母兄に定恵がいる(父を孝徳天皇とする伝がある)。蘇我臣連子の娘を娶って武智麻呂・房前・宇合の三子をもうけ、また天武の未亡人で異母妹である五百重娘との間に麻呂をもうけた。女子では文武夫人宮子・長屋王妾長娥子・聖武皇后光明子・左大臣橘諸兄室・大伴古慈斐室らがいる。旧名は史(ふひと)。死後、文忠公・淡海公と称された。
藤原氏はもと中臣氏。中臣は天児屋根命の後裔氏族とされ、姓ははじめ連、684(天武13)年に朝臣を賜わった。元来は卜部を名乗ったと思われ、「中臣氏延喜本系帳」によれば、鎌足の曾祖父にあたる常磐が初めて中臣連を賜わったという。本拠地は河内国河内郡の枚岡神社(東大阪市出雲井町)付近かという。もともと祭祀を司る伴造氏族であったが、推古・舒明朝頃から次第に国政の中枢に進出し、天智天皇の腹心となった鎌足はその死に臨み藤原姓を賜わって、祭祀氏族としての出自から絶縁した。藤原姓は次子不比等に限って継承された
●略伝
幼少期は山科の田辺家(田辺福麻呂参照)に養育を受けたらしい。669(天智8)年、11歳の時、父鎌足が薨じ、この時父は天智天皇より藤原姓を賜る。その3年後には壬申の乱が勃発、近江方の重臣の子であった不比等は、幼少ゆえ局外に立つ幸運に恵まれた。生前の鎌足を徳とした天武天皇の庇護を受け、689(持統3)年、31歳の時判事に任ぜられて正史に登場する。この時すでに直広肆(従五位下)の高位にあった。同年草壁皇子は薨ずる直前に愛用の佩刀を不比等に遺贈し、息子軽の将来を託したという。697(持統11)年、軽王の即位に成功し(文武天皇)、さらに娘の宮子を入内させた。この頃、県犬養三千代を美努王から奪って後妻とした。701(大宝1)年、副総裁として『大宝律令』の完成に功を挙げ、大納言に昇進。同年、宮子に首皇子が生れた。707(慶雲4)年、文武帝が崩ずると帝の母阿閉皇女を推し立て、翌年元明即位と共に右大臣に昇った。710(和銅3)年、平城遷都を主導し、新京の4大寺に氏寺である興福寺を組み込んだ。やがて『養老律令』の編纂に着手したが、完成を見ず、720(養老4)年8月3日、62歳で薨じた。太政大臣正一位を追贈され、文忠公の諡号を贈られた。