赤穂事件

出典: Jinkawiki

元禄十四年(1701)、高家(幕府の儀式などを司った職。勅使の接待なども行った。)筆頭の吉良上野介が、江戸城・松の廊下を通行中、播州赤穂城主の浅野内匠頭に脇差しで斬られるという事件のこと。浅野内匠頭は吉良上野介に個人的な恨みがあったとされているが、そのあたりは定かではない。この事件に対する幕府の対応は素早く、浅野内匠頭は即日切腹を命じられ、吉良上野介は傷の養生をするように、との裁定が当時の将軍徳川綱吉から下された。 事件の後、赤穂藩では家老の大石良雄以下、全員が城に集まって今後の身の振り方について議論を重ねた。抗戦派と、城を開城し、御家再興を嘆願すべきという恭順派とに分かれたが、城の開城に応じることとなった。しかし納得のいかないものが多く、主君浅野内匠頭の無念を晴らすべく仇討を誓うこととなる。

浪々の身になると苦しい生活の中で志を貫くことは難しく、途中脱落者もありながら、最終的に仇討に加わったものは、大石良雄・主税親子以下四十七名の志士であった。(四十六名という説もある。)雪の降るなか、翌元禄十五年(1702)十二月十五日未明、赤穂の浪士は主君の敵、吉良邸に討ちいる。吉良家臣の人数は定かではないが、討ち入り後の幕府の検死役の書には「中間小物共八十九人」と書かれている。吉良方の奮闘もあったが、赤穂浪士は吉良上野介の首を見事に落とし、仇討を成功させている。

討ち入り後、四十七名の志士たちは自ら幕府に名乗り出て、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名の元へと預けられ、沙汰を待つ身となった。翌年二月四日に切腹して果てるのだが、同日に吉良義周(吉良上野介の養子)も知行没収、信濃高島に流されている。赤穂浪士の遺子のうち、出家したものを除いて15歳以上の者は流罪となったが、宝永六年、徳川綱吉が死去し甥の家宣が将軍を継ぐと、恩赦が出されて赤穂浪士の遺子たちも放免となる。同年、浅野大学長広が赦免され、500石を拝領して再び旗本となり、寄合に列せられている。

この一連の事件は浄瑠璃や歌舞伎に脚色・上演され話題となる。東京都内には、忠臣蔵ゆかりの地がいくつか残っている。

参考文献 ・面白いほどよくわかる日本史 鈴木 旭 著   日本文芸社 ・日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会 編  山川出版社 ・元禄赤穂事件 ウィキペディア  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ・赤穂浪士 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB

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