足軽
出典: Jinkawiki
足軽
中世において出現した軽装歩兵の呼称で、戦国時代以後組織化され、近世になって武士の最下層に位置づけられた身分。中世では、疾足(しっそく/はやあし)ともよばれた。『平家物語』『太平記』などには、敵方を攪乱するための兵として描かれている。南北朝内乱期に活躍した野伏の系譜を引くともいわれる。足軽の活動が顕著となるのは、応仁・文明の乱(1467~77)のころで、『樵談治要(しょうだんちよう)』では「超過したる悪党」「昼強盗」と記され、武士・公家(くげ)階級を脅かす存在であった。足軽の戦法は「甲ヲ(かん)セズ戈ヲトラズ、タダ一剣ヲモツテ敵軍ニ突入ス」(『碧山日録(へきざんにちろく)』)ともいわれるが、武士と異なり逃げることを恥とせず、集団戦を得意としていた。当時、足軽は傭兵(ようへい)的性格が強く、多様な階層より構成され、京都、奈良の近郊荘園村落が主要な供給源の一つであり、土一揆(つちいっき)、徳政一揆の武力とも重なるところがあったと思われる。また、京都市中では足軽の放火、略奪行為も目立ち、東寺が、足軽に加わることを禁じているように、社会問題化した現象でもあった。戦国時代、戦国大名は足軽の組織化を図り、郷村支配の進展に伴って農兵の徴発を強化した。一方、織田信長の足軽鉄砲隊に代表されるように、鉄砲の普及によって常備軍化する傾向も強く、足軽の武器別編成も生まれた。近世、足軽は武士の最下層に身分として固定され、平時には雑役をも務めた。なお、明治維新後は卒族と呼称され、廃藩置県後には士族に編入されている。
階級・身分
戦国期に見られる足軽の階級(身分)としては足軽たちの上に足軽大将(単に足軽頭また足軽大頭とも)と足軽小頭(足軽組頭)があり、室町期には足軽たちの中から統領的な立場にある者が命ぜられていたが、戦国期になると主君直属の士分の者が任命されるようになった。大名家によりかなりの差があるが、足軽大将は小頭を含めた50~150名程度、小頭は30名程度を統率していたものとみられる。 足軽大将には概ね家中の中士以上の身分の者が任命されており、実際には足軽大将1名につき数名程度の小頭が配属されていたようである。従って足軽隊に対する命令伝達系統は、総大将または侍大将→足軽大将→足軽小頭→足軽衆と伝えられていたわけである。 あと、足軽と同義で使用されることがある「同心」という呼称についてであるが、これは南北朝時代頃から一般的に被官の俗称として用いられていて、当初は足軽より階級が上の者についての呼称であった。しかし次第に下の階級まで含めてそう呼ぶようになり、戦国末期には足軽級の者のみを指すようになったという。『甲陽軍鑑』にも「甘利殿同心かしら米倉丹後守と云矢弓巧者の武士よき工夫の故(略)」と見え、一部に例外はあるものの、戦国期の記録における足軽と同心はほぼ同義語と見なして良く、実際記録には打ち混ぜて用いられているようである。