近松門左衛門
出典: Jinkawiki
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概要
江戸時代中期の歌舞伎・浄瑠璃の脚本。承応二年(1653)~享保九年(1724)。越前国(福井県)出身。
作劇修行時代
本名は杉森信盛。越前吉江藩士の家に生まれるが、父が浪人の身となり、京都に転居した。20歳のとき、近江の近松寺(ごんしょうじ)に遊学し、26歳で坂田藤十郎(元禄の上方歌舞伎を代表する俳優)のために歌舞伎の脚本作りをして名を上げた。貞享に入ると藤十郎との提携は強まり、写実的な劇を書き、世話歌舞伎の樹立に尽くす。この間、『世継曽我』が評判を得ると、竹本義太夫とも関係を持つようになった。竹本座を創設した義太夫を祝って、貞享2年、門左衛門が30歳のときに書いた『出世景清』を契機に、古浄瑠璃(三味線伴奏による日本の語物音楽の分類名。17世紀初頭から人形芝居に用いられた浄瑠璃のうち、竹本義太夫によって1684年義太夫節が成立する以前の各流の総称として用いられる。)の域を脱し、現実的、個性的描写により浄瑠璃に新生面を開き、その進化を成し遂げた。しかし、この時期(門左衛門が40代の時期)は浄瑠璃よりも、歌舞伎に力が注がれていた。
浄瑠璃の完成
元禄の中ごろ、藤十郎が都万太夫(みやこまんだゆう)座の座本を引退すると、門左衛門は浄瑠璃に専念するようになる。元禄16年、義太夫に書いた『曽根崎心中』が大当たりをとる。やがて、53歳で竹本座の座付き作家になると、歴史・伝説に題材を求めた時代浄瑠璃に多くの傑作を生み出した。また、当代の社会に取材した世話浄瑠璃も次々と発表した。
作品
『国性爺合戦』…1715年初演。5段。正保(しょうほう)(1644~48)のころ、明国人鄭芝龍(ていしりょう)と日本人との間に生まれた鄭成功(ていせいこう)が、明朝回復に尽力した物語。竹本義太夫の死に伴う竹本座解散の危機のときに立ち直らせた傑作である。
『曽根崎心中』…1703年(元禄16)5月7日初演。前月の4月7日(23日とも)曽根崎で起きたお初、徳兵衛の心中事件をただちに脚色したもので、近松最初の世話浄瑠璃、また心中物流行の端緒となった作として、近世戯曲史上大きな意義をもつ。大阪本町の醤油屋の徳兵衛と遊女のお初は深く契りを結んでおり、徳兵衛は主人の妻の姪との結婚を断る。必要となった金子を悪友に騙し取られるなどの窮地に立ち、徳兵衛とお初は曽根崎天神の森で情死するという話。
参考
・常用国語便覧(2002)浜島書店
・Yahoo!百科事典 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%BF%91%E6%9D%BE%E9%96%80%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80/