鎌倉仏教
出典: Jinkawiki
鎌倉仏教とは、平安末期から鎌倉中期に興った新仏教のことである。 武家の政治が始まると、精神生活にも変化があらわれ、その一つが新しい仏教の興隆だった。密教中心の祈祷や学問に主眼を置くものから、内面的な救済を求め、広く庶民階層を対象とする宗教へと変化していった。政治や社会不安のなかで、末法の克服を願い、念仏を勧める浄土教系の諸宗、法華経絶対の日蓮宗、宋から伝えられた禅宗がひろまった。 鎌倉仏教の代表的なものは、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗である。 法然は、1133年美作国生まれる。はじめは天台宗にはいり、さらに諸学を学ぶが、1175年に京都東山の吉水で専修念仏の教えをたたえ、浄土宗を開く。浄土宗は、従来の貴族風の浄土教から脱皮し、誰でも自らの浅はかな自尊心を捨て阿弥陀如来の無限の包容力という他力を信じ、その名を一心にたたえれば誰でも必ず救われるという専修念仏の教えで、貴族や武士にも普及した。浄土宗の総本山は京都東山の知恩院、教義を説いた書として『選択本願念仏集』がある。
親鸞は、1173年京都にうまれる。法然の弟子であり、法然が数多く念仏を唱えることを勧めたのに対し、心の中でのひたすらなる信心を求め、阿弥陀仏の力にすがる絶対他力を強調した浄土真宗を開いた。また、阿弥陀仏が救おうと願っているのは、自分で修業を積んで善人だと満足している人よりは、多くの悩みに気づいて悪人との自覚を持っている人だという考え方をいう「悪人正機説」という思想もあらわしている。浄土真宗の教義を説いた書として『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』、また親鸞の弟子唯円が記した『歎異抄』がある。総本山は本願寺である。
一遍は時宗の開祖である。時宗は、日常のどんな時も臨終と心得て念仏せよという臨命終時宗の意。信心の有無を問わず念仏を唱えるだけですべての人が救われると説く。一遍は各地を遊行し、念仏を唱えながら踊る「踊念仏」をはじめて時宗の普及に努めた。一遍に従い全国を遊行した人々を時衆と呼ぶ。一遍の和歌や法語などを門弟たちが編集した『一遍上人語録』があり、総本山は清浄光寺である。
日蓮は、天台宗の他、諸宗を学び日蓮宗をひらいた。法華経の功徳を仏教の真髄とし、題目をたたえることによって人は即身成仏、世界は浄土となると説いた。題目とは、法華経で唱える「南無妙法蓮華経」の「七字の題字」のことである。日蓮宗は初めは東国地方の武士などの支持を受け、室町時代に京都の商工業者にひろまった。日蓮の代表的な宗教書として、流罪の原因となった『立正安国論』があり、総本山は久遠寺である。
栄西は備中国に生まれ、比叡山で学んだのち1168年・1187年の2回にわたって入宋し、臨済宗を伝えた。臨済宗は9世紀に唐僧臨済が開いた禅宗の一派である。坐禅によって公案(師の禅僧から坐禅者に示され、考える手掛かりとする問題。参禅工夫した後、師僧と問答が行われる。)を解決して悟りに達する自力の仏教である。栄西の著書として、『興禅護国論』がある。
道元は天台宗・臨済宗を学び、1223年に入宋して曹洞宗を伝えた。曹洞宗は9世紀に唐で始まった禅宗五家の一派である。教義は坐禅そのものが仏法であるとして只管打坐を説き、臨済宗とは異なり公案を用いない。地方の土豪・農民に普及した。道元の説示を収録した『正法眼蔵』があり、総本山は永平寺である。
参考文献 ・面白いほどよくわかる日本史 日本文芸社 鈴木 旭 著 ・日本史B用語集 山川出版社 全国歴史教育研究協議会 編
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