鎌倉市
出典: Jinkawiki
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面積
39.53平方キロメートル
場所
三浦半島の基部に位置し、南は相模湾に面し、北、東は横浜市、西は藤沢市、南東は逗子市と接する。旧鎌倉郡の大半を占める。市の中心部は東、北、西の三方を標高100メートル前後の丘陵によって囲まれ、南は由比ガ浜に面する。いわゆる旧鎌倉である。その北方、北西方、柏尾川流域の大船や深沢を中心とする地域と、西方の腰越、津地域はともにかつての旧鎌倉の周辺、境界部にあたり、合併して現在の鎌倉市となっている。
歴史
市内における最古の遺物は、粟舟山で発見された先土器時代の刃器型石器であり、縄文時代の遺跡や遺物は北部の柏尾川で多く発見されている。中世に入ると治承4年8月の挙兵以来、南関東諸国の支配を推し進めてきた源頼朝は10月7日に鎌倉に入ってこの地を根拠地として定めた。三方は海に囲まれて防御に容易な地形、南の一方は海に開かれ、漁業や海上交通の基地であり、また三浦半島を通過して房総半島へと渡海する古東海道上の要地といった条件を考えれば、この認識の正しさが納得できる。すでに古代以来、鎌倉が相模国内でも重要な地点であったこともおそらくこうした条件のしからしめたところであろう。近現代になり明治22年2月に国鉄横須賀線が開通して鎌倉駅が開設され、東京と鉄道によって直結することになり、海水浴場、あるいは結核などの保養地としてよく知られるようになった。大正14年には横須賀線が電化されて運転回数も増え、所要時間も短縮されて東京、横浜への通勤が可能になった。そのため鎌倉の人口は急激に増加し、市街地化も進んだ。第二次世界大戦後、別荘地、保養地から一般住宅地への変化が急速に進み、その後も特に旧鎌倉の周辺地域を中心とした宅地化著しく、かつての景観がはなはだしくなかったため、これに反対する市民運動が盛り上がり、昭和41年古都保存法が制定された。朝比奈地区、八幡宮地区、大町、材木座地区、長谷、極楽寺地区、山之内地区が歴史的風土保存区域に指定された。これらのうち建長寺、浄智寺、八幡宮、瑞泉寺地区など旧地区が歴史的風土特別保存地区に指定されている。
参考文献
『日本歴史地名体系~神奈川県の地名~』下中邦彦(1984)平凡社