関東大震災5

出典: Jinkawiki

目次

関東大震災

1923年(大正12)9月1日土曜日午前11時58分、神奈川県中部から相模灘東部、房総半島南端にかけての一帯を震源域として発生したマグニチュードM7.9の大地震。日本最大級の地震である。

被害

約9万人が死亡。約1万6千人が重症。約1万3千人が行方不明。約3万5千人が軽傷となった。建物被害において全壊が約8万3千余棟。全焼が38万余棟である。余震は128回、激震に続く津波・火災で1府6県に甚大な被害。

東京火災被害

関東大震災において最も悲惨かつ大規模な被害を出したのは、本所区(今のほぼ墨田区)陸軍被服廠跡だった。その原因は火災である。東京支部では、石油ランプなどの新しい器具が普及しつつある反面、水道管の破裂によって消防能力が失われ、手のほどこしようがなくなる可能性が高くなり、地震直後から各所で火の手が上がった。昼食時だったため、各家庭や飲食店で使っていた火が原因となった。さらには、学校、工場、病院な どに保管されていた薬品類が落下、破砕して、発火した。特に学校からの出火が最も多く、東京帝国大学工学部・医科部(本郷区)、麹町高等小学校(麹町区)、専修高等女学校(小石川区)など20ヵ所近くにのぼった。

復興

焦土の巷では、罹災者に一人一日につき玄米二合の配給が始まり(9月22日)、山本権兵衛新内閣の内装後藤新平は「帝都復興案」を急ぎ内務所に作らせた。その計画案によると、彼が描いていた欧米式の大都市建設を実現するには、国家予算の約3倍にあたる41億円を要するとされた。帝都復興審議会と帝都復興院が設置され、アメリカから都市計画の権威ビアード博士が招かれた。その新首都建設のための政府の掛け声は威勢はよかったが、「後藤の大風呂敷」と評され、翌年、清浦奎吾内閣になって予算を7億円に引き下がれ、幻の帝都復興計画に終わってしまった。庶民は今日の食糧、明日の住家を切実に欲していたが、生活必需品や建築資材などの値上がりが続き、バラック生活を余儀なくされていた。バラックには市直営と区営があり、上野公園を筆頭に日比谷公園など計2万9166世帯、10万6259人が暮らしていた。

参考文献

「図説 関東大震災」 編者:太平洋戦争研究会 出版:河出書房新社 発行日:2003年9月1日

「関東大震災」 著者:姜 徳相 出版:中央公論社 発行日:1975年1月


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成