韓国併合2

出典: Jinkawiki

1910年(明治43年)、韓国は日本に併合された。韓国(正式には大韓帝国)が日本の一部になって、韓国という国がなくなるというものである。日本と韓国が「韓国併合に関する条約」を結ぶことで一緒になるという形式をとった。

条約では、韓国の皇帝が統治権を譲与し、日本の天皇がこれを受諾するという「合意」の形になっている。日本が韓国を強制的に併合したのではなく、お互いが合意の上で一緒になったという建前である。

日本はそれまでに計3回にわたる「日韓協約」で、韓国を保護国にしていた。特に1905年の第二次日韓協約は、日本の憲兵隊が包囲する中で開かれた韓国政府の閣僚会議に伊藤博文特派大使が乗り込み、調印を認めさせた。この第二次日韓条約で、韓国は外交権を日本に譲渡し、実質的に独立国の地位を失っていた。

韓国併合は、韓国を日本のものにする最終仕上げだったのである。それ以後、日本が太平洋戦争で敗北する1945年までの36年間を、韓国では「日帝時代36年」と呼ぶ。「日帝」とは大日本帝国あるいは日本帝国主義のことである。

日本に併合された韓国では、日本の皇帝の代理の「朝鮮総督」が統治した。総督の命令が法律になり、日本国内で成立した法律は、朝鮮半島では、天皇の命令=勅令となった。

韓国の人々を代表する国会のようなものは存在しなかった。学校では日本語の使用が強制され、日本風の名前にする「創氏改名」が進められた。半島各地に神社も建設された。

日本の統治に反対する人々は、厳しく弾圧された。1919年1月、日本によって軟禁状態にされていた国王高宗が急死すると、「日本によって毒殺された」といううわさが広がって反日感情が高まる。3月1日、ソウル市内に多数の人々が集まって「独立宣言」を発表した。これが「三・一運動」である。日本は弾圧で応じた。

日本の支配下で土地を奪われた人や、働き場所を求める人たちが、日本に渡った。日本国内の労働力不足を解決するために、強制的に連れてこられた人もいる。日本の敗戦当時、日本本土には200万人を超える朝鮮半島出身者がいた。この人たちや、その子孫が在日韓国人、朝鮮人なのである。

日本の朝鮮半島支配の総仕上げになった「韓国併合条約」について、戦後独立した韓国政府は、日本の軍事力を背景に強制的に結ばせた帝国主義的な行為であり、不法なものであったという立場をとる。

一方、日本政府は、合法的であったという立場である。たとえば、1965年11月の国会で、韓国併合条約について開かれた当時の佐藤栄作総理は、「対等の立場で、また自由意思でこの条約が締結された、かように思っております」と答弁している。認識が全く違うのである。



参考文献

○池上彰(2008)『そうだったのか!日本現代史』集英社文庫

○後藤武士(2009)『読むだけですっきりわかる政治と経済』宝島社


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