韓国併合4
出典: Jinkawiki
韓国併合
日露の戦端が開かれようとした1903年12月31日に、日本政府は、韓国に対して保護的協約を結ぼうとした。韓国の高宗は、日本の意向の阻止を図るが、ロシア公使が帰国すると日本側の要請に応じて、2月23日に日韓議定書が締結された。 日韓議定書に内容は韓国政府は日本政府の出した施政の改善意見を受け入れ、他国の侵略や内乱に対する日本政府の措置に韓国政府は便宜を与える、このために軍事上必要な地点を日本は接収することができる、本条約の意趣に反する条約を第三国との間に締結することができない。というものであった。 日韓議定書が締結されると、日本政府は、韓国にに対する政治上・軍事上に保護化と、経済においても権益の発展を図ることにした。8月22日に第一次日韓協約を締結した。それは、韓国政府が日本政府の推薦する日本人を財政顧問とし、第二に日本政府が推薦する外国人を外交顧問として、外交に関する意見を聞いて外交を行う。というものであった。 欧米は、1905年に桂タフト協約において、日本の韓国への宗主権をアメリカが承認し、日英同盟の改定で、イギリスも日本の韓国における指導・官吏・保護を承認した。さらにロシアも講和条約において保護国化を承認していたので、日本は伊藤博文を派遣して第二次日韓協約を締結した。 これにより、韓国の対外的な関係の管理、指揮を日本が行うことになり、韓国は日本政府の仲介によらなければ条約が締結できないことになった。このように韓国は外交権を喪失するとともに統監が設置され、外交が管理されることになった。この締結は、韓国側の抵抗を押し切っておこなわれたが、これが発表されると義兵運動が本格化した。 皇帝は、1907年のハーグ密使事件をおこし、日本側は協約違反とした。皇帝は退位させられ、法令や行政上の処理・官吏の任免を統監の承認を得ることにする内政権の掌握を行う第三次日韓協約が締結された。また、覚書によって軍隊も解散させられた。 これにより、朝鮮全土の武装反乱は広がり、1907~10年の四年間で14万人が2819回も日本軍隊・警察と交戦し、1800人の死亡者が出た。伊藤博文が安重根に暗殺され、かねてより準備が進められていた韓国併合は強行され、8月22日に韓国併合条約が調印された。
韓国併合に対する日本の世論
韓国が日本の領土になると、官報で国民に知らされた。東京では軒並みで日の丸が掲げられ、各新聞も祝賀ムードだった。知識人も軍医であった森鴎らは祝賀を表すべく参内した。そのような中、歌人石川啄木は「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聞く」と詠んだ。