ひめゆり部隊

出典: Jinkawiki

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ひめゆり部隊

ひめゆり部隊とは、第二次世界大戦末期にアメリカ軍との唯一の地上戦になった沖縄戦で、法的な根拠はなく従軍看護要員として動員された沖縄県立師範学校女子部と県立第一高等女学校合同編成の従軍看護隊の通称である。「ひめゆり」は両校のシンボル「白百合」と「乙女」からとられた愛称となっている。 1944年(昭和19)12月、アメリカ軍上陸は避けられないものである、という戦局のもとで、沖縄守護軍(第三二軍)と県当局は県下全ての中等学校生徒を軍人・軍属に動員する計画を立て、女子生徒には従軍看護隊への参加を要請した。これを受けて師範女子部・一高女では45年1月から沖縄陸軍病院に通って野戦看護法の講習を受けていたが、沖縄戦開始直後の3月25日(23日の説も)、艦砲射撃の下を南風原村の陸軍病院に正式に入隊し、食事の準備、下の世話、包帯交換など、休まず、寝ずの体制で看護をした。  4月1日のアメリカ軍沖縄本島上陸以降は、前線から搬送されてくる負傷兵は急増し、女子学徒たちは正規看護婦の補助要員として看護活動に追われた。5月24日、戦線は間近に接近し、陸軍病院は傷病兵とともに喜屋武半島への移動を開始、山城地区の自然洞窟に分かれて配置についた。しかし米軍の進撃は速く、6月18日にはアメリカ軍戦車群が喜屋武半島に侵入してきたので、学徒隊には解散命令が出された。しかし敵の包囲下にあって脱出は困難な状況となり、途中で敵弾に倒れる者、追いつめられて自殺する者が続出し、とくに脱出が遅れた第三外科壕ではガス弾攻撃によって一瞬のうちに40名の学徒が戦死したとされている。特に6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出したとされている。最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡した。その内の14人は荒崎海岸で「集団自決」をしている。彼女たちの最期は沖縄戦の悲劇を象徴するものとしてさまざまな小説や映画に描かれている。 戦後、第三外科壕跡に両校戦没職員・学徒をまつる「ひめゆりの塔」が建立され、89年(平成元)6月には同域内にひめゆり同窓会によって「ひめゆり平和祈念資料館」が建設された。

学徒隊

ひめゆり学徒隊の他にも、沖縄では全女学校の生徒に対して戦場動員に備え、看護教育が行われた。 沖縄戦が間近になると、生徒らは割り当てられた部隊に連れて行かれ再教育された。以下、その部隊名と詳細である。

・県立二高女:白梅学徒隊-家庭・健康なども考慮して、無理はするなと言われた。54名が動員され、そのうち20  名が死亡した。

・県立首里高女:ずいせん学徒隊-石部隊からの強い要請だから協力せよと指示があった。61名が動員され、そのうち33名が死亡した。

・昭和高女:梯梧学徒隊-強制の有無はずいせん学徒隊と同様。17名が動員され、そのうち7名が死亡した。

・積徳高女:積徳学徒隊-疎開も阻止されて強制的であった。65名が動員され、そのうち4名が死亡した。

・県立三高女:なごらん学徒隊-父兄の承諾印をもらうよう言われたが、もらわずに参加する者もいた。10名が動員され、そのうち1名               が死亡した。

・県立一高女、師範学校女子部:ひめゆり学徒隊-半強制的に動員され、一部は承諾印を求められた。県立一高女から65名動員され42名               が死亡。師範学校女子部からは156名が動員され 81名が死亡した。


ひめゆり同窓会誌第15号

誓って標準語勵行 城間成(三乙)

一、勤労作業(第一日曜)

一、出征軍人への慰問文(毎月一回)

一、母校への奉仕作業

一、早寝早起の習慣をつける

一、水泳練習

一、毎朝ラヂオ体操

一、誓って標準語勵行

一、廃品の募集

一、小遣いの節約で貯金

一、家事の手伝い

一、バスに乗らぬようにつとめる


参考文献

「沖縄を知る事典」編集委員会(編) 2000 沖縄を知る事典 日外アソシエーツ株式会社

下中弘(編) 大城将保(著) 1993 日本史大事典 第五巻 株式会社平凡社

財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会 1989 ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック 文進印刷株式会社


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