ガリア戦記
出典: Jinkawiki
概要
ローマの政治家カエサルの作品。紀元前58年から前50年までの、地方長官としてカエサルが遂行したガリア戦争の記録。全8巻。カエサル自身の筆は第1巻~第7巻(ウェルキンゲトリクスを破る前52年のアレシアの決戦まで)であり、第8巻は彼の部将ヒルティウスの手になる。ガリアでの戦いを客観的で冷静な筆で描くことによりローマの戦争の正当性を示し、政治家、将軍としての自らの立場、功業を明らかにしたもの。前1世紀のガリア人社会を知るための史料として重要。第一級の歴史書であるとともにラテン文学の傑作である。もともとはカエサルの元老院への戦況報告の体裁を取っていたと考えられ、文中において自己に言及するときは「カエサル」もしくは三人称で書かれていることが特徴である。
カエサル
ローマ共和制末期の将軍にしてローマ最大の政治家。また、武人として西洋史上最大の影響を残した人物の一人。名門に生まれたが、幼時のことは不明。姻族関係から人民派に属し、元老院派のスラの全盛時代に迫害をうけ小アジアに逃れた。スラの死によりローマに帰り、ドラベラの施政を告発して政治生活に入る。 財務官、按察官、大神官となり名声を高めるとともにローマ最大の負債者となったが、前60年にはクラッスス、ポンペイウスとともに第1次三頭政治をおこない、前59年に執政官として土地法案、徴税請負入札額の削減、属州での政務官の不法搾取禁止法、元老院議事録公開法の制定など敏腕をふるった。前58年から前51年にガリア遠征を行い自己の権力地盤を確立し、西ヨーロッパのローマ化の基礎を築いた。前56年のルカの会談でガリアの支配権を5ヵ年延長したが、前54年カエサルの娘でポンペイウスの妻、ユリアが死亡、前53年クラッススの戦死によってカエサルポンペイウスの対立関係が顕著となった。身の危険を感じたカエサルは属州にあって軍隊を保持したまま執政官に立候補することを要求したが、認められず、前49年1月カエサルの召還が決議されると、ルビコンの河越えを決行してローマを占領、前48年ファルサロスの戦いでポンペイウスを破った。ついで、エジプトに干渉し、クレオパトラを王位につけて前46年にはポンペイウス派の残党を破り、また、ポンペイウスの2人の息子を討ってローマに凱旋、天下統一の事業を完了した。前46年ディクタトルとなり、前44年アントニウスより王冠を奉呈され、受け取りこそしなかったものの、王位の確立を暗示する予言が発見され、王政に対する危惧が増大した。
ガリア戦争
ガリア戦争は、紀元前58年から紀元前51年にかけて、ローマのガリア地区総督ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア(現:フランス、ベルギー、スイス等)に遠征してその全域を征服し、共和政ローマの属州とした一連の戦争を指す。一連のガリア戦争によって、カエサルはガリア全域をローマの支配圏に組み入れた。この戦争により、カエサル自身も将軍としての実績を積んで権威を高め、ガリアからの莫大な戦利品により財産を蓄えた。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、共和政ローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓うようになり、精強な私兵軍団を形成した。