キューバ危機
出典: Jinkawiki
キューバ危機とは、1962年10月15日から13日間続いた米ソ間の核戦争の危機を招いた国際緊張の事を指す。 事は1959年の会談より始まった。キューバ革命後、アメリカに援助を申し込んだカストロ首相は、アイゼンハワー大統領の欠席ならびにニクソン副大統領の「共産主義者」発言に憤慨し、ソ連との接触を試みた。ソ連は兵器の提供の代わりに核ミサイルをキューバ国内に配備する『アナディル作戦』を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめたのである。
アメリカ政府は国家安全保障会議執行委員会を設置、ミサイル基地への空爆を主張する強硬論を抑えて、第1段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止しようとした。さらにケネディは10月18日にアンドレイ・グロムイコ駐米ソ連特命全権大使をホワイトハウスに呼びつけ懸念を表明し、ソ連政府の対応を迫ると同時に、10月22日にテレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。しかし同時にアメリカも核弾頭ミサイルの発射体制を整えていた。 アメリカはソ連へのミサイル撤去の交渉を開始したが、連国連大使ヴァレリアン・ゾーリンは言葉巧みに明言を避けた。10月26日にはソ連からアメリカへ妥協案が示され、その内容はアメリカがキューバに対する軍事行動をしないなら、キューバの核ミサイルを撤退させるというものだった。しかし、10月27日に内容が変更され、トルコに配備されているミサイルの撤退も要求してきた。これは、アメリカにとって受け入れがたく、同日、アメリカのU-2偵察機がソ連軍の対空ミサイルで撃墜されたこの日は「暗黒の土曜日」と呼ばれる。
ミサイル撤去の表明がなされたのは10月28日午前9時であった。フルシチョフ首相はモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。この対応に対しキューバのカストロ議長は苦言を呈したが、その後キューバに対するアメリカの介入も減り、冷戦も落ち着きを見せた。
参考資料
池上彰 2007 そうだったのか!現代史
植村光雄 2004 忘れてしまった過去100年の世界史 今を理解するための歴史テキスト