バッハ

出典: Jinkawiki

フルネームはヨハン・ゼバスティアン・バッハ。18世紀ドイツでバロック音楽の鍵盤楽器の演奏において活躍した作曲家。バッハ一族は、数多くの音楽家を世に出した一族として、知られる。バッハ家が、世に出した音楽家の人数は、約二世紀半の間に約六十人に達する。200年にわたり多数の音楽家を輩出したバッハ一族のなかにおいて、最大の音楽家で、「大バッハ」とよばれる。ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、その他のバッハ一族の人物との混乱を避けるため、J.S.バッハと略記することもある。 西洋音楽の歴史において、後世の作曲家に顕著な影響を与え、近代西洋音楽の基礎を構築した功績に敬愛の念をあらわして、「音楽の父」ともよばれる。彼に至る西洋音楽史を集大成するような偉大な存在だが、優秀な息子たちと多くの弟子をもったため、後代の音楽の発展にも重要な影響を及ぼした。19世紀には古い音楽伝統の象徴的存在とみなされ、あらゆる音楽家の学習の対象となった。


生涯

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1685年3月31日アイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれた。バッハが9歳の時に母が死去、10歳の時に父が死去し、修道院付属学校の給費生として生活した。 1703年に宮廷楽団に就職し、ヴァイオリンとオルガン演奏をこなした。アルンシュタットの新教会に新しいオルガンが設置されたときの試奏者に選ばれ、優れた演奏を披露し、教会のオルガニストに採用され、聖歌隊の指導も任された。 1707年、マリア・バルバラと結婚。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家となる。

1708年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなった。多くのオルガン曲はこの時期の作品である。1714年一月に一曲のカンタータを作曲、上演した。しかし最終的には主家のお家騒動の余波を受けて投獄された後、ヴァイマルを追放された。 1717年、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。1720年夏、旅行中に妻が急死する不幸に見舞われ、翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚。彼女は夫の仕事を助け、作品の写譜などもしている。有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏されたと思われる曲が折々に書き込まれている。アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち、末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えた。

1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任すると同時にライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。宮廷作曲家の職を求めカトリックのミサ曲も作曲した。 1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命される。1747年のベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問がきっかけになり、『音楽の捧げもの』が生まれる。

1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れ、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていた。1750年3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けたが、失敗していて後遺症が残った。それを抑えるための薬品投与などの治療は既に高齢なバッハの体力を奪い7月28日午後8時15分に65歳でこの世を去った。

彼の曲は鍵盤楽器の曲を中心に彼の息子たちやモーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リストなどといった音楽家たちによって確実に受け継がれた。



引用参考

初めてのクラシック音楽 http://www.classic.13site.com/composer/bach.html バッハ 生涯と功績 http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/bach_vita.html


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