ブラウン判決

出典: Jinkawiki

ブラウン判決とは

1954年5月にアメリカ合衆国の連邦最高裁判所が下した、黒人・白人分離問題に関する歴史的判決ぼことである。南部の各州は、19世紀の末に学校や病院、交通機関や公園など、公共施設において白人と黒人とを分離する法律、いわゆる人種差別法を相次いで制定し、黒人差別の制度化を図った。連邦最高裁は1896年のプレッシー判決において、「分離はしても平等」なる法理を打ち出し、施設や設備が平等であれば人種の分離は合憲と判断し、人種の分離に法的根拠を与えた。これに対し、ブラウン判決は、「分離された教育施設は本質的に不平等」との判断を下し、「分離はしても平等」という法理を明確に退けた。分離は合衆国憲法第14条修正のうたう法の平等な保護を奪う、というものであった。判決は、公立学校における黒人・白人共学を実現させる原点となったばかりでなく、人種の分離や隔離そのものを原理的に誤りだととすることにより、合衆国の人種関係改善に向けて画期的な判決となった。公民権運動は、この判決を武器に大きく前進した。

プレッシー判決とは

南北戦争の後、1863年に憲法修正13条により奴隷制度が廃止され、第14条により法の下での人種差別も許されないことになったが、そのような動きに対し南部の差別主義者たちは新たな法によって対抗した。彼らは「分離はしても平等」という法解釈に基づいて人種隔離を認める法律を次々に成立させていき、南部を中心とする多くの州では、あらゆる交通機関や公共の建物、トイレ、水飲み場までがその対象となり、旅客列車においても黒人用、白人用の席を分離することが義務づけられ、その区分けを無視するものは逮捕されることとなった。1892年6月、ルイジアナ州に住むホーマー・アドルフ・プレッシーという黒人男性がこの法律の違法性を問うため、あえて白人席に座って逮捕された。この裁判は最高裁にまで持ち込まれたが、そこでの判決は「隔離を認める州法は一方の人種を劣等とみなすものではない。従って、憲法第14条に反するものではない」というものだった。逆に別人種との同席を強要することの方が違法である、と判断を下し、この判決はその後50年以上有効性を保ち続けることになった。


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