レオナルド・ダ・ヴインチ

出典: Jinkawiki

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonrdo da vinci, 1452-1519)

フィレンツェの公証人で運動競技、音楽、素描、絵画、彫刻、建築、都市計画、遠近法、光学、天文学、飛行術、水力学、航海術、軍事、構造力学、機械工学、解剖学、生物学、動物学、植物学、地質学、地理学、数学と、さまざまな分野に興味を示し、彼自身「画家は万能でなければ賞賛に値しない」と述べたように、西洋美術史上最も偉大な万能の天才である。とくに幼児のころから、数学・音楽・絵画などに特異な才能を示し、自然に対して深い関心を抱いた。

 レオナルドの画歴ははっきりと四つの主な時期に分類される。第1期フィレンツェ時代ではヴェロッキオのもとで修業を積み、1472年には親方として画家組合に登録されている。単独で手掛けた最初の大作は「受胎告知」である。ついでミラノ時代では現存する傑作として「岩窟の聖母」と「最後の晩餐」がある。ルーヴル美術館の「岩窟の聖母」はほぼ確実に1483年に制作が開始された。第2期フィレンツェ時代にはかの有名な「モナ・リザ」と「聖母子と聖アンナ」が制作された。これらの作品はレオナルドの新しい「スフマート技法」の開花を示す作品である。そして、最後の活動期が第2期ミラノ時代以降である。彼は2作目の「岩窟の聖母」を仕上げるために1506年ミラノに戻り、フランス国王フランソワ1世の画家兼技師となった。ところが、このあたりからますます科学的研究に没頭していったようである。事実、晩年の絵画様式に関して現存する唯一の記録はルーヴル美術館蔵の「聖ヨハネ」だけである。

 レオナルドはその生涯と作品のほとんどあらゆる面で、近代世界へと向かう道を決定する重大な瞬間に立っていた。彼は中世の「普遍性」という観念に固執しつつも、観察と実験および事実に基づく知識の蓄積を重視することにより、「普遍性」には到達できないと見なして専門分化した近代世界への先導役を果たした。彼は美術家の優れた才能と独自の社会的役割を主張して、中世の社会において甘んじていた職人地位から美術家を解放する道を開くことに寄与した。そして美術家が「個人」であり、かつ社会的には流動的な存在で、成功も失敗も本人の意思に委ねられる事業家という、近代の美術家の先駆けとなった。

 レオナルドは芸術は科学的実験とは異なって、まさに独創性と一回性のうちに本質的価値を有するものであり、彼の科学的な仕事はすべてその芸術に奉仕するものだと主張し続けた。美術家が製図術の精度を高めたのは芸術のためであったが、カメラが発明される以前の数世紀前間に自然科学がこれほど急進的な進歩を遂げたのは、この製図の技術なしには考えらないことであった。レオナルドはまさに西洋文明史上の一つの不思議な時代、すなわち美術が近代科学世界への歩みの先頭に立ち、科学の萌芽が最高の芸術を成就させるための触媒だった、その摩訶不思議な時代に生きたのである。


参考文献

J.R.ヘイル 編 中森 義宗 監訳 「イタリア ルネサンス事典」東信堂

京大西洋史辞典編纂会編 「新編 西洋史辞典 改訂増補」 東京創元者


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