ワシントン(初代米大統領)2

出典: Jinkawiki

ジョージ・ワシントン(George Washington)

初代アメリカ大統領。ヴァージニアの大農園主で、独立革命軍の司令官として活躍した。思想的には穏健派で、誠実な人柄が国民の信望を高め、困難な建国記をまとめる中心的な役割を果たした。

目次

生い立ち

イギリス系移民の4代目としてイギリス植民地南部のヴァージニアに生れ、正式の教育も受けず、10歳代の半ばから測量の仕事に従事した。兄が死んだあと、マウント・ヴァーノンの農園を相続し、1754年にはヴァージニア民兵軍の中佐としてフランス植民地軍との戦争に参加し、59年に26歳でマーサ・カスティスという1歳年上の未亡人と結婚した。マーサはすでに4人の子(そのうち2人は早世)があったが広大な農園の所有者でもあったので、ワシントンはこの結婚で植民地有数の資産家となり、多数の黒人奴隷を所有することになった。

独立戦争

1775年4月に北部の植民地ボストンの近郊で独立戦争の火蓋が切られると、すでにヴァージニア民兵軍の司令官となっていたワシントンは、フィラデルフィアで開かれた各植民地代表による大陸会議の席上で、独立革命軍の総司令官に選ばれた。 彼のもとに集まった即成の兵士たちは、独立を目指して士気こそ高かったものの、訓練も不十分、兵器も不足がちで、当時世界最強を誇ったイギリス本国軍と太刀打ちができず、国際的な港として発展し始めていたニューヨークはたちまち占領され、その後も長く苦戦を続けなければならなかった。しかし、ワシントンの統率力は抜群で、妻のマーサも戦闘の合間には野営地まで出向き、夫や他の将軍たちの世話をして回ったという。

一方では、T・ジェファソンの原案による独立宣言書が1776年7月4日に公布され、またB・フランクリンの外交が功を奏してフランスからの援軍も到着して、81年10月にはヨークタウンでイギリス軍を降伏させた。

初代大統領としてのワシントン

こうして新しい国が手探りでスタートしようとしている82年に、彼は部下の将軍から国王となるよう提言を受け、厳しくその部下を叱責して、83年には大陸会議に総司令官としての権限を返還し、マウント・ヴァーノンに戻って大農園主の生活に復帰した。 マーサは長い間夫とともにマウント・ヴァーノンで暮らすことを望んでいたので、束の間の生活を楽しむことができたが、1787年にはフィラデルフィアで開かれた憲法制定会議に夫が出席して議長に選ばれ、さらにその憲法のもとで夫が初代大統領に選出されると、またマウント・ヴァーノンを離れて公的な生活を始めなければならなくなった。

1789年4月30日、ワシントンはニューヨークのウォール・ストリートに面したフィラデル・ホールで就任式を行ったが、官邸は与えられず、年俸2万5千ドルですべての生活を賄わなければならなかった。新しい共和国の大統領として、どのような生活がふさわしいのか、もちろん前例は全くなかったので、ワシントン夫妻は結局それまでの南部上流社会の生活をモデルとしてスタートすることになった。 彼は閣僚のうち最も重大な財務長官に若くて才能豊かなA・ハミルトンを、国務長官には独立宣言書の草案を起草したT・ジェファソンを起用した。商工業に基盤をおく中央集権国家を目指したハミルトンは、連邦党の中心人物となった。また、各州自治の農業立国を主張したジェファソンは、反連邦党(共和党)を組織するが、大統領としてのワシントンは党派の争いを好まず、超党派の立場を維持しているつもりでいながら、実際には連邦党の主張に傾いた。国家の基盤が十分に定まらない混沌としたなかで、彼はまず秩序の維持を最高の目標としたのである。 この間、議会は1790年12月に、ニューヨークからフィラデルフィアに移り、大統領夫妻も約一年半のニューヨーク生活を終わって移動した。新しい大統領官邸は友人の邸宅で、行政の最高官としては窮屈な生活を強いられたが、ワシントンはメリーランドとヴァージニア両州にまたがる土地『コロンビア特別区』に新しい首都を建設する提案をして承認され、2代目大統領ジョン・アダムズの時代の1800年6月、ワシントン・D・Cとして誕生することとなった。

告別演説

ヨーロッパに戦争に巻き込まれず、中立を保って新しい共和国の安定を図ったワシントンは、1796年に三選を辞退して「告別演説」を行い、マウント・ヴァーノンに戻った。この演説は歴代大統領の演説の中でも白眉のものとされ、以降これが先例となってその後の一世紀余り、参戦に挑戦する大統領はいなかった。


晩年

1799年12月12日、化膿性扁桃腺炎という咽喉感染症を患い、これが急性の喉頭炎と肺炎に変わり、ワシントンは12月14日、自宅にて死去した。享年67歳であった。

初代大統領としてのワシントンは没後しだいに神格化され、州名その他に彼の名が広く使われるようになり、アメリカ全体の典型的なシンボルとなっている。政治や軍事の上で特に優れた才能を持っていたわけではないが、国家創成という一大激変期に際し、多くの人々の信望を集めて収束させた業績は今なお高く評価されている。日本でも幕末から明治にかけて、アメリカ建国の父として紹介され、尊敬された。

参考文献

アメリカ史重要人物101 猿谷要/編 新書館


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