ヴェトナム戦争

出典: Jinkawiki

《ベトナム戦争年表》 1960(昭和35)年~1975(昭和50)年 Vietnam war 北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカが支援する南ベトナム政府との間で戦われた戦争 1964(昭和39)年8月、トンキン湾でのアメリカ軍艦艇に対する北ベトナム軍の攻撃(トンキン湾事件)を機にして米議会は戦争拡大を支持(トンキン湾決議) 1965(昭和40)年 アメリカは北ベトナムによる解放民族戦線への援助阻止を主張して北ベトナム爆撃(北爆)と南ベトナムへの増兵を開始 アメリカは最大時50万を越える兵力を投入  4月4日 アメリカ、北ベトナム空軍と最初の交戦   北ベトナム空軍MiG-17戦闘機がアメリカ空軍F-105戦闘爆撃機2機を撃墜 南ベトナム側には韓国 (1965(昭和40)年1月~)、タイ、オーストラリア (1966(昭和41)年4月~)、フィリピン (1966(昭和41)年~)、ニュージーランド (1965(昭和40)年7月~1972(昭和47)年6月)、台湾、スペインの派遣軍も加わる 北ベトナム側には中国人民解放軍が秘密裏に派兵 (1965(昭和40)年5月~1973(昭和48)年8月)、ソ連が軍事顧問団を派遣 (1964(昭和39)年~) 北ベトナムも正規軍を南下させて解放民族戦線を援助し戦闘は激化 1968(昭和43)年1月~2月 テト攻勢  北ベトナム側が南ベトナム全土で同時多発攻撃を行うが、撃退される 1968(昭和43)年5月13日 パリでの和平交渉が開始される 1970(昭和45)年3月27日 アメリカ軍・南ベトナム軍、カンボジア侵攻  6月30日 アメリカ軍、カンボジアから撤退 1971(昭和46)年2月8日 南ベトナム軍、ラオス侵攻 1972(昭和47)年2月 ニクソン訪中 1973(昭和48)年1月27日 アメリカ、南ベトナム、北ベトナム、南ベトナム臨時革命政府が和平協定に調印  1月28日 停戦 1973(昭和48)年3月29日 アメリカ軍が南ベトナムからの撤退を完了 1975(昭和50)年4月30日 北ベトナム軍の侵攻で南ベトナムの首都サイゴンが陥落  同日、南ベトナム政府の無条件降伏で戦争は終結 この戦争による死傷者は民間人440万、北ベトナム軍・解放戦線227万6700、南ベトナム政府軍59万9000、米軍36万 アメリカ・ワシントンD.C.にはアメリカ軍戦死者の名前を刻んだモニュメントがある。

《概要》 ベトナム戦争前に勃発した第二次世界大戦の終わりは、民主主義対共産主義の戦いの始まりであった。当時中国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)など相次ぐ共産化に危機感を抱いたアメリカは、CIAを通じ、ゴ・ジン・ジェムを擁立し、南ヴェトナム政権を支援した。しかし、ジェムは、一族による独裁を敢行し、民衆を苦しめたために、すぐに大衆の反感を買い、クーデターやデモが続発する。こうした中1960年には、南ヴェトナム解放戦線(NLF)が誕生し北ヴェトナムの支援を受けゲリラ活動を展開する。1963年には、仏教徒の大弾圧に対し、僧侶が抗議の焼身自殺を図ると、それを見たジェムの弟、ゴ・ジン・ニューの夫人が「坊主のバーベキュー」と発言。国内外から激しい避難を浴びる。やがてアメリカにも見放されたジェムは11月のクーデターで弟と共に射殺され政権は崩壊した。これはCIAの手引きによるものとも言われている。一方米軍は、ヴェトナムに派遣していた軍事顧問団を軍事顧問軍に改名。戦略村の構築など表だった活動を開始した。南のクーデターが発覚した同じ頃アメリカでは20世紀を代表する衝撃的な事件が起きた。テキサス州ダラスを訪問中だった史上最年少の大統領ジョン・F・ケネ ディが元海兵隊員オズワルドに射殺されるという事件が発生したのだ。副大統領だったジョンソンはその後大統領になるが、生前ケネディが打ち出していた、ヴェトナムへの援助縮小を覆し、徹底抗戦の姿勢を見せた。やがて、トンキン湾事件が発生し報復として「北爆」が開始されることになる。そして、アメリカの介入により1964年から始まった第二次インドシナ戦争は、ヴェトナム戦争と呼ばれることになる。1965年に米軍プレーク基地が攻撃を受けると、ローリングサンダー作戦を敢行。以降3年間に渡りB52戦略爆撃機による北爆が行われた。また海兵隊がダナンに上陸。続いて陸軍地上部隊も派遣され、兵員は一気に20万人にまで膨れ上がった。当初の大規模作戦の成功は、アメリカの油断を生み、北側のゲリラ戦への戦術移行に対応できずに多くの犠牲を生むことになるが、この時期の小さな敗戦は楽観視されてしまった。また北ベトナム正規軍南進などの情報も軽視され、その後巨人は蟻に足下をすくわれることになる。


また、1968年はヴェトナム戦争の最大の転機となる年である。アジアの旧正月テト。祝日であるこの日は、南北双方に暗黙のうちに休戦状態が成立していた。しかし1968年、1月30日未明から、共産軍による南ヴェトナム全土への一斉攻撃、いわゆる「テト攻勢」が実施された。NFL及びヴェトナム軍は44の省の内36省、242の主要都市の内64都市などに攻撃を仕掛けた。首都サイゴンでは市街戦が展開され、NFL特攻隊がアメリカ大使館を一時的に占拠しその模様はTVを通し世界中に衝撃を与えた。この件でアメリカは軍事的な被害は最小限に留めたものの、メディアに訴えることに成功した共産軍は実質的な勝利者となり、アメリカ国内にも「反戦」という大きな変化を生むことになる。テト攻勢によるヴェトコンの死者は一週間で4万人にも登り軍事面では大失敗となった。同年中には、アメリカ全土に反戦デモが頻発し、多数の徴兵拒否者も出た。苦境に立たされたジョンソン大統領は、次期選挙への出馬を辞めると共に北爆の制限と、米軍の戦闘部隊の順次引き上げを表明した。これによりアメリカは事実上勝利を諦め、和平会議の席に着くことになる。しかしその後も戦闘は激化 し交渉は暗礁に乗り上げる。10月末にジョンソンは北爆の全面中止を発表し、翌月ニクソン政権が誕生すると、ヴェトナムからの撤退が本格的に始まることになる。パリでは、アメリカ、南ヴェトナム、北ヴェトナム、NLFの代表による4者会議がはじまり、ニクソンは南ヴェトナム軍を強化し米軍の支援無しでも戦えるようにし、その間に米軍が撤退する計画を発表した。同年9月には北ヴェトナムの指導者ホー・チ・ミンが死去するが、北ヴェトナムの姿勢に変化はなかった。アメリカ国内では反戦運動が頂点に達し、ニクソンはさらに5万人を追加撤退させることを発表した。ヴェトナムでの米兵の死者は1969年までに4万人に達しており、徴兵者を中心に士気の低下が目に見えてきた。1970年初頭ニクソン大統領のヴェトナム化政策は成功しつつあるとされたが、カンボジアでの越境、ホー・チ・ミンルートの寸断など戦果はインドシナ全体に広がっていくことになる。また、兵士達の麻薬中毒が深刻化し、反戦主義者の命令違反なども多く発生した。11月には特殊部隊が捕虜救出作戦を遂行するが、捕虜はすでに移送されており収容所は空であった。1971年にはカンボジアに続きラオス にも侵攻、反戦運動が更に高まりニクソンの支持率は就任後最低を記録した。追い打ちをかけるように莫大な戦費で国内はインフレを起こし、経済は悪化した。編成された南ヴェトナム軍は最大の規模になったが、皆一様に指揮は低かった。 《終結》 1972年和平交渉が難航する中、ニクソンは訪中し、国交を正常化する。両者はヴェトナム戦争終結早期実現に向け努力することを約束する。ところが3月末には北ベトナム軍戦車部隊がDMZを越えて南進テト攻勢以来最大の攻撃となったこの猛攻は、イースター攻勢と呼ばれ、中央高地や、メコンデルタ地帯でも猛攻が開始された。この侵攻に対しアメリカは1968年以来の北爆を再開。ラインバッカー作戦の発動である。また、同時に海上の機雷封鎖なども行った。ウォーターゲート事件をなんとか乗り切り再選を果たしたニクソン大統領は、共産側との交渉を続けると同時にラインバッカーII作戦を発動。ハノイ、ハイフォンを中心にこれまでで最大の爆撃を開始した。これにより戦闘能力が低下した北ヴェトナムは、和平交渉の席に着く事になる。1973年に、パリ和平交渉は急速に進展する。1月27日にはアメリカ、南ヴェトナム、北ヴェトナム、南ヴェトナム臨時革命政府(解放戦線)の4者がが和平協定に調印した。しかし数日後には戦闘が再開し、ラオス、カンボジアの共産軍に対し米軍機の攻撃も再開した。共産軍に協定を順守する意志は更々なかったが、アメリカはこの戦争から手 を引く大義名分を探していた。3月末にはアメリカ軍の最後の部隊がヴェトナムを撤退。8月には、米空軍機のカンボジア爆撃も終了。アメリカの軍事活動は終了した。これにより、共産軍は一気に勢力を増大、この時点でインドシナの戦争は終わったと言える。その後、北ヴェトナムは勢いを増し南ヴェトナム軍は各地で苦戦。1975年ヴェトナム戦争は終結する。米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れし、当初2年はかかると見られていた、南の制圧を驚異的な速度で進め、4月には首都サイゴンに迫った。市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れアメリカ大使館や空港に殺到した。アメリカもサイゴンからの撤退を開始。米大使グラハム・マーチンをはじめとするアメリカ人関係者、及び南ヴェトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出した。4月30日サイゴン陥落。北ヴェトナム正規軍は、ほぼ無血の内にサイゴンに入城した。こうして10年にも及ぶヴェトナム戦争は終了した。アメリカにとって第二次世界大戦よりも長かったこの戦争は、北ヴェトナム及びNLFの完全勝利となった。アメリカが惨敗したこの戦争はアメリカの威信を失墜させた。多く の代償と引き替えにアメリカが学んだものは、その後、グレナダ、パナマ、そして湾岸戦争でその真価を発揮することになるが、それがこの戦争で失ったものの対価に値するとはとうてい思えないのである。1975年夏NLFは解散し新政権は北ヴェトナム労働党(共産党)が政権を握る。1976年ヴェトナムは「ヴェトナム社会主義人民共和国」として統一され、サイゴンはホー・チ・ミン市と改名された。それから20年の歳月が流れ、冷戦の終結、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツの統合という世界背景の中で1995年、アメリカ合衆国とヴェトナム社会主義人民共和国は国交を結ぶことになる。


《参考文献》 http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/he/vietnamwar.html

http://www.special-warfare.net/data_base/101_war_data/vietnam_war/vietnam01.html

より引用


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