十二単

出典: Jinkawiki

 女房装束。10世紀、国風文化の時代を迎え、女性装束も国風化し生まれたファッションであるとされる。摂関期における女性同士のライバル意識の高さがさらなる美麗化をもたらし、院政期には風流の傾向を受け、唐衣(1番上に着るもの)に紐をつけたり裳(腰より下を覆うスカートのようなもの)に金箔をつけるなど「過差」(ぜいたく)となって装飾を規制する命令が出るまでにいたった。十二単の名称は後世の造語で、女性用の中間着である袿(うちき)を重ね、二単(ふたつひとえ)とか五単(いつつひとえ)といって重ねた枚数と単で表現していたことにある。室町時代末期以降、女房装束のことを十二単といい、その名称が現在も使われている。 当時、女性が公の場で活躍する機会が少なく、服装について詳しく公式記録として説明されることがあまりないため、『源氏物語』のような文学作品によってその姿が伝えられている。十二単は現在では宮中の儀式で着用されている。

【普段着】

 肌着は長袴と単、下着は袿で、ここまでを重ね打ち袿姿という。公家女子の私服(日常着)であり、女房装束をはじめとするすべての公家女子装束に共通する下着姿となった。重ね袿の枚数は寒暖や好みに応じて自由であったが、先に上げた「過差」を禁止してからは女房装束の下着としては5枚限定となりこれを五衣(いつつぎぬ)とよんだ。 この五衣に「表着(うわぎ)」、さらに「小袿」や「唐衣」を重ねることで正式な女房装束になる。

【十二単の重量】

 現在復元される十二単は15~20kg程度あるといわる。しかし、平安時代の十二単の重さは現在の半分以下だったのではないかと考えられている。その理由はカイコの違いと、それによる絹生地の厚さの違いが挙げられる。品種改良の進んでいない原種に近いカイコのはきだす糸は細く、生地も現代より薄かったと考えられる。元日本種のカイコ「小石丸」による絹糸の重量は一般的な絹糸の40%ほどなので、平安時代の十二単は8kg程度だったということになる。

【十二単の配色】

 平安時代の女房装束は、衣1枚1枚の美しさよりも、枚数の重なりによって生み出されるグラデーションの方が重視された。五衣の色合いに趣向を凝らし、四季折々の風情を見出して着用すべき季節を定めた。  平安時代以降、公家が選んだ配色方法としていくつか挙げる。

・匂(におい):同系色のグラデーション

・薄様(うすよう):グラデーションで淡色、白になる配色

・村濃(むらご):ところどころに濃淡がある配色

・単重(ひとえがさね):夏物の裏地のない衣の重ね。透けることによって色合いが変わる

 それぞれの配色には名称があり、『満佐須計装束抄』の例をあげると、紅と萌黄のグラデーションからなる「萌黄の匂」、紅色のグラデーションの『紅の匂』、青・淡青から紅へと変化する『握り紅葉』、白と紅、青からなる『雪の下』などさまざまである。 平安時代の青とは、「グリーン」のことをさす。「藍色」といば山藍の草色(グリーン)で、藍染めによる色のことをブルーとした。


【引用・参考文献】

素晴らしい装束の世界今に生きる千年のファッション 八條忠基 成文堂新光社

装束の日本史平安貴族は何を着ていたのか  近藤好和  平凡社新書


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成