在日韓国人の参政権

出典: Jinkawiki

 戦前の在日韓国人には参政権があった。朝鮮の歴史で意外と知られていないのが、戦前の内地(日本本国内)に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があったことだ。 1920年の衆議院選挙では、所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使している。そして1925年には普通選挙法が成立し、納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになった。朴春琴は1932年から42年までに実施された四回の衆議院議員選挙に東京4区で立候補し、うち32年と37年の二回当選しています。在日では他に何名かが立候補しているが、落選となっている。なお地方議会議員選挙でも立候補した在日はかなりの数にのぼり、当選も少なくない。 また、戦前の選挙法では、立候補は戸籍名で行なうことになっていた。従って1940年の創氏改名令以前は、当然本名=民族名での立候補であった。前述のように朴春琴もその名前で立候補し、当選した。日本人からも多数の支持があったためで、民族名はマイナスにならなかったことが分かる。 創氏改名令後に行なわれた1942年4月の衆議院選挙(旧憲法下で最後の選挙となります)でも朴春琴、李英介、李慶圭、李善洪、辛泰獄、任龍吉の6名が民族名のままで立候補しています。日本名で立候補した朝鮮人はいなっかたのだ。彼らは創氏改名後も名前を変えなかったものと思われる。これは太平洋戦争中の出来事で、軍国主義最盛期といえる時代である。なおこの時の選挙結果は同一選挙区で競合したこともあって全員落選したのだ。民族名ゆえに落選したものではない。 さらに選挙では有権者はハングルで投票することが認められていました。1930(昭和5)年1月31日に内務省法令審議会はハングルの投票を有効としていた。ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には、諺文字(ハングルのこと)書が配布された。植民地の文字が宗主国の選挙で使用を認められたのは、世界植民地史上おそらく唯一ではないかと思われる。さらに参政権では差別がなかった。朝鮮や台湾という植民地(当時は外地と呼ばれていました)に居住する者は、日本人でも参政権はなかった。日本人も朝鮮・台湾人も内地に住む者だけに参政権があったということだ。つまり参政権において内外地の差別はあったが、日本人と植民地人との間には同じ大日本帝国臣民として差別はなかったということである。これはまた、帝国臣民として運命と歴史を共にしていた時代であったと言うこ都が考えられる。

参政権剥奪論は誤り 第二次大戦の結果が日本の敗戦となった結果、朝鮮・台湾は日本の植民地支配から解放されたため、その出身者は日本人と違う処遇を受けることとなる。それまで有していた参政権は喪失した。これを「参政権の剥奪」と主張する方がおられるが、参政権は帝国臣民ゆえに有していた権利である。喪失は解放によって臣民でなくなった結果だから、「剥奪」という評価は誤りと考える。参政権の喪失は民族の解放という積極的な意味があるのであり、剥奪論は解放を否定するものである。 戦前では日本に居住する朝鮮・台湾人には、国政でも地方でも参政権があった。またハングルの投票が認められていたし、立候補は民族名で行なわれた。これは戦争中の1942年の衆議院議員選挙でも変わらなかった。日本は同じ皇国臣民として差別なく扱おうとしたこと、およびその際に民族名やハングルは障害にならなかったということだ。しかし議員活動した朝鮮人は、戦後に民族の裏切り者として同胞より指弾された。


参考文献:松田利彦『戦前期の在日朝鮮人と参政権』明石書店1995年

金賛汀『異邦人は君が代に乗って』岩波新書 1985年

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