大日本帝国憲法

出典: Jinkawiki

大日本帝国憲法の経緯について   

 徳川封建体制を解体した明治政府は、政府に不満をもつ士族たちの自由民権運動に突き上げられて、憲法の制定に熱意を示すようになり、1876年(明治9)9月元老院に草案起草を命じた。こうして、憲法制定の第一歩が踏み出された。元老院は、国憲取調委員を設けて、各国の憲法を参照し、同年10月「日本国憲按」第一次草稿を作成、さらに78年第二次草案をつくった。これはベルギー憲法などの影響を強く受けて、民主的な色彩の濃いものであったので、岩倉具視らの強い反対を受け、再修正されて、80年「日本国憲按」(第三次確定案)として奏上されたが、採用されなかった。このころ、民間にあっても私擬憲法(私人のつくる憲法草案)が盛んに提出された。なかでも植木枝盛の私案憲法「日本国国憲按」などは急進的で、政府を大いに刺激したため、政府も憲法制定の必要性を痛感し、国会開設までに憲法を制定することを宣明した。 こうした経緯ののち、明治憲法制定の歴史の最後の幕は伊藤博文の渡欧によってあけられた。彼はドイツの法律学者グナイストやシュタインの教えを受けて、ドイツ諸邦、とくにプロイセンの立憲君主制に日本国体に適合する政治組織をみいだした。帰国後、彼を中心として、井上毅、金子堅太郎らが加わって最初の試案を1880年に作成、さらに88年に確定草案を完成した。この間何回かの起案、修正は民間の動きとはまったく無関係に秘密裏に行われ、絶対主義的政府の体質にあった案が作成された。成案は枢密院の諮詢を経て、89年2月11日に欽定された。これが大日本帝国憲法であり、一度も改正されることなく、第二次世界大戦後、新憲法「日本国憲法」の施行(1947年5月3日)前日まで存続した。  大日本帝国憲法というのは、誤解を恐れずに言えば、非常に良く出来た法律である。この憲法は、1889年に出された欽定憲法、すなわち天皇が臣民に与えるという形をとっている。そして、この大日本帝国憲法には、大きい矛盾がある。注目するのは3条と4条である。天皇は神聖不可侵と同時に、天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規によりこれを行う、とある。天皇は神聖不可侵であるといっているにも関わらず、憲法の条規により、と4条で縛りを設けているのである。この矛盾は、作者である伊藤博文が意図的に設けたものであると考えられている。明治維新は、王政復古の大号令で始まる。それにより、天皇中心であるという条文がなくてはならない。ところが、王政復古の大号令も諸外国から見たら、絶対君主の時代に見える。しかし、それではうまくなく、官僚が政治をする形にしなければならない。そのため、3条で天皇を神のごとく持ち上げておいて、4条で縛る。これにより、伊藤博文自身が実権を握ることができるのである。そして、決定的なことは、どのような政策の失敗も天皇に責任が及ばないようにしたことである。この矛盾の構造は、伊藤博文という大日本帝国憲法の作者が意図的にやったことなのである。  また、大日本帝国憲法には、教育に関する条文はなくその代わりに、憲法発布の翌年の1890年に法的拘束力のない教育勅語が出される。教育については、自由民権運動のグループに絶対に指を触れさせない、という伊藤博文の策略なのである。そして、教育は、政府の意図で行っていくために「天皇の命令=勅令」という形で、全て進めていくのである。


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