寛政異学の禁

出典: Jinkawiki

寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)とは、1790年(寛政2年)、江戸幕府の老中であった松平定信が寛政の改革の一環として行った学問統制である。

概要

江戸幕府は成立以来、儒学とくにそのうちでも朱子学を、封建教学の根本とした。しかしやがて、朱子学に飽き足らぬ人々が多くなり、「知行合一」を説く実践的な儒学である陽明学や、直接に孔子、孟子の経典を研究することによってその真の精神を明らかにしようとする古学派や、さらには、いずれの学派にも偏せず学問研究法の自由を主張する折衷派など、朱子学以外の学問が盛んになった。これに対して、幕府の教学体制の中心である林家には人材が出ず、朱子学は衰える一方であった。寛政の改革を主導した老中松平定信は、このような情勢に対処して、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じた。湯島聖堂の学問所には儒官として柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉が任じられ、この3人を「寛政の三博士」という。その後、岡田寒泉は代官に転任し、その後に古賀精里が任ぜられた。学問所は7年後に官立に改められ、昌平坂学問所と呼ばれた。 なお、昌平坂学問所では異学の講義を禁じられたが、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。 また、異学の禁に反対した儒者五名(亀田鵬斎、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)を特に寛政の五鬼という。しかしこうした反対にもかかわらず、幕府の手厚い保護により朱子学がいささかなりとも復興したことは否めぬ事実である。なお、異学の禁は、以上のような単なる学問統制にとどまらず、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとするものでもあった点が注目される。


参考文献 『詳説 日本史』山川出版社

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E7%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A6%81 http://www2.ocn.ne.jp/~hiroseki/shiryou/kansei.html


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