徳川家宣

出典: Jinkawiki

徳川家宣(とくがわいえのぶ)



目次

生い立ち

五代将軍綱吉の兄で甲府25万石の藩主徳川綱重には長子綱豊がいた。綱重は家光の次男で四代将軍家綱の弟である。綱重が生きていたなら五代将軍の座は、綱重だったかもしれないが、延宝六年(1678年)、35歳で病役した。

綱豊の生母はおほらという酌女であった。綱重の酒席で酌をしているうちに気に入られ、寛文二年(1662年)4月25日未の刻(午後2時ごろ)、谷中の御殿で男の子を産んだ。虎松と名付けられたこの子がのちの綱豊である。

綱吉は自分と同様、身分の低い母親から産まれた綱豊を嫌っていた(綱吉の生母、圭昌院は八百屋の娘であった)が、晩年やむなく養子に迎え、家宣と名乗らせた。

綱吉が死去した宝永六年(1709年)、家宣は48歳で六代将軍に就任する。




治世

就任すると先代の側用人柳沢吉保をしりぞけた。新たに侍講(将軍の家庭教師)の新井白石を登用した。新井白石は儒学者であり、政策にまでも進言していた。側用人には間部詮房を登用した。この時代は学者の意見が政治に反映され、家宣の子家継の時代と合わせて「正徳の治」と呼ばれる。


宝永六年(1709年)生類憐みの令の廃止 綱吉は自分の亡き後も生類憐みの令を守るように、側近たちに言い聞かせていたのだが、新将軍は綱吉の葬儀の2日前に生類憐みの令を廃止すると宣言した。このとき罪を許された江戸町人は八千数百人にのぼったといわれる。


閑院宮家創設 平和と安定のなかでは儀礼を通した身分秩序が重視された。伏見・桂・有栖川宮家に加えて、新しく閑院宮家が設立された。征夷大将軍は天皇から任命される。天皇の権威を下げると、将軍の権威そのものもあまり上がらないことになってしまう。そこで、天皇の権威を上げることによって、その天皇から政治を依頼されている将軍の権威も上がるという新井白石の意図があったのだろうといわれている。


正徳元年(1711年)朝鮮通信使の待遇の簡素化 朝鮮の国王の派遣した使者をあまり手厚くもてなすと、将軍の権威が下がると考え、簡素化することで権威を上げようと考えた。しかし、朝鮮語・中国語をよくし、対馬藩に仕えて文教・外交に活躍していた雨森芳洲という儒学者は抗議した。 また朝鮮通信使の国書に、それまで将軍を「大君」と表記させていたのを「日本国王」と改めた。しかし享保以降また元に戻る。




 

最期

正徳二年(1712年)、江戸で感冒、いまでいうインフルエンザが流行した。家宣はこの年の9月14日、風邪気味だったので朝から床に臥していた。23日になっても、風邪は治らず、この日から病床に臥した。25日、寄合医師の中から吉田宗恬、渋江直治、数原宗達の3人を召し出し、診療にあたらせた。10月になると目に見えて重篤になった。側近たちは根津権現に参拝して将軍の病気回復を祈願した。しかし、家宣はついに肺炎を起こし、再起不能と悟った家宣は、10月9日に側近たちをよんで遺言をした。10月13日には全身の疲労感が強まる。夜になっていよいよ臨終が迫った。10月14日の丑の刻(午前2時ごろ)、この世を去った。法名は文昭院、芝の増上寺に葬られた。


家宣の死因となったインフルエンザは江戸期に27回の大流行がみられ、お七風(幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、それが後に浄瑠璃等芝居の題材となったことで有名)、谷風(大相撲力士谷風 梶之助がインフルエンザで亡くなったため)、琉球風、アメリカ風など世相をあらわす名のインフルエンザもあった。



参考文献

篠田達明 2005 徳川十五代のカルテ 新潮新書


石川晶康 2004 石川日本史B講義の実況中継③ 語学春秋社


Z会出版編集部編 2002 日本史B用語&問題2100 Z会出版


松村明 1995 大辞泉 小学館

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