日蓮の出生

出典: Jinkawiki

 日蓮は鎌倉時代の僧であり、日蓮宗の開祖として知られている。字は蓮長。諡号は立正大師。

 彼は貞応元年(1222)、2月16日、安房国長狭郡東条郷小湊(現在の千葉県鴨川市)に生まれた。伝承によれば父の名は貫名次郎重忠、母の名は梅菊とされているが、その家系を巡っては様々な説があり、出自については未だに多くの謎がつきまとっている。


 日蓮の家系についての主な説としては、以下の3つが挙げられる。

① 遠江出身の武士の子とする説(参考文献:Ⅳ)

 父が「貫名次郎重忠」という歴とした姓名をもつということ、また日蓮の周囲に有力武士の被官、それも文筆官僚としての役割を負う人物が多くみられるということから、日蓮は故あって安房国に流された武士の子であるとする説。人物の一例としては、日蓮が幼少の頃から庇護を受けていた、下総国(千葉県)の守護をつとめる千葉介頼胤の家臣、富木常忍夫妻の存在が挙げられる。

② 小湊の有力漁民の子とする説(Ⅱ)

日蓮自身が、己を「片海の海人の子」あるいは海辺の「旃陀羅」(インドのカースト外の最下層の階級。屠殺などを業とする)の子と称していることや、彼が教育を受けるために幼少期に寺に入っていたことなどから、日蓮は小湊の有力漁民の子であるとする説。また網元(網主。船舶や漁網などの漁具を所有して、多くの漁師を雇い漁業を営む者)の子であるとする説もある。

③ 荘官の子とする説(Ⅴ) 

 日蓮とその両親が、「領家の尼」から精神的にも経済的にも恩恵を受けていたとする日蓮自身の後年の手紙から、貫名家が「領主(荘園領主)」と主従関係にあったと仮定し、日蓮の出自は荘官の子であるとする説。貫名家は漁業権をもつ領家のもとで働き、その地の漁場の管理などを行っていたと考えられる。


 日蓮が自身の家系について述べることは、その生涯を通して一度もなかったとされる。ただ彼は「日蓮は中国、都の者にも非ず、戦国の将軍らの子息にも非ず、遠国の者、民の子にて候」とだけ語り(Ⅱ)、民衆の苦しみを最も理解できる「民の子」「漁夫の子」としての誇りを胸に生涯の宗教活動を行った。そのことから日蓮は、宗教活動が一番届きにくいとされていた最下層階級の者と己の出自とを同等に考え、そう宣言することで「救われないものを救済する」という己の信念を示したのだと推測できる(Ⅴ)。  


 後世の研究と、日蓮自身の本意とは噛み合わない部分が多い。しかし、日蓮という人物について、現在も多くの人々がその足跡を追っている事実を考えると、彼の遺したものの大きさと、未だ人々を引き付ける魅力とが見えてくるように思える。


参考文献

Ⅰ 尾崎綱賀 1999 日蓮‐現世往成の意味‐ 世界書院

Ⅱ 久保田正文 1967 日蓮 講談社

Ⅲ 佐藤弘夫 2003 日蓮‐われ日本の柱とならむ‐ ミネルヴァ書房

Ⅳ 中尾堯 2001 日蓮 吉川弘文館

Ⅴ 藤井寛清 2005 日蓮 ナツメ社

Ⅵ 三浦茂一 1989 図説 日本の歴史13 図説 千葉県の歴史 河出書房新社


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