朝倉義景

出典: Jinkawiki

朝倉義景

名門朝倉家最期の当主

 越前の国主、名門朝倉家に生まれた朝倉義景は父の死により16歳で家督を継ぐ。義景という名は将軍・足利義輝から1字を与えられたものであり、正室は足利幕府の管領の娘と、朝倉家は室町幕府にとって重要な地位にある大名であった。とくに朝倉家を三代に渡って支えた名将・朝倉宗滴が1555年に病死するまでは朝倉家の武力は強大であったという。  京都で将軍・義輝が暗殺されると、その弟・足利義昭が朝倉家を頼って落ち延びてきたのも当然のことであった。義景は義昭を手厚く保護するが、義昭の望む自分を奉じての上洛には消極的であった。  これは、義景にとっても絶好の飛躍の機会であったと思われるが、越前の国力や、一向一揆などで国内がそれほど安定していなかったことが理由だったようだ。  これに義昭は、やむを得ず当時朝倉家の家臣だった明智光秀を仲介役として織田信長のもとへ去り、信長は義昭を奉じて上洛を果たす。  信長は義景にも上洛を呼びかけたが、義景はこれに応じない。義景は積極的に信長と敵対するつもりはなかったが、越前は美濃を脅かす位置にあり、信長から圧力をかけられていた。  また、義昭と義昭を自分の傀儡としか見ない信長の関係は次第に冷えてゆき、義昭は対「信長包囲網」を画策。義景にもそれに参加するよう促していたのである。

千載一遇の機会を逃し自害

 1570年、信長は3万の兵を率いて京を出発、越前に侵攻して手筒山城、金ヶ崎城を攻め落とす。朝倉家の運命ももはやこれまでというとき、中立の立場にいた浅井長政が挙兵、織田軍の背後を脅かした。織田軍は壊走し、信長はなんとか京に逃れることができた。義景は大きな好機を逃し、結局これが自らと朝倉家を滅ぼすこととなる。  態勢を立て直した織田軍に浅井・朝倉連合軍は「姉川の戦い」で敗れ、信長が石山本願寺に出兵している間に反撃することはあったものの以後勢力を失っていく。そして東の武田信玄が没すると、信長は浅井・朝倉に全力を投入することができるようになり、越前、および近江に侵攻した。義景は一族の朝倉影鏡と家臣の魚住影固に出陣を命じるが、両者は疲労を理由にそれを断る。朝倉家一族、家臣団の間にはすでに動揺が広がっていた。  やむをえず義景自身が出陣するものの、信長は雨の中をついて出撃し、義景と長政のあいだを分断する。このため義景は越前へ引き上げたのだが、浅井軍は小谷城に封じ込められ、織田軍を牽制することができなくなった。越前の国境で織田軍を迎え撃った義景であったが、織田軍を支えきれず、妻子やわずかな共を連れて大野へ入った。  そして影鏡の裏切りにあい追い詰められて自害し、その人生に自ら幕を下ろすことになったのである。


参考文献

カラー版徹底図解戦国時代 新星出版社

戦国武将完全ビジュアルガイド 株式会社カンゼン


  人間科学大事典

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