死刑廃止論

出典: Jinkawiki

目次

死刑廃止条約

「Second Optional Protocol to the International Covenant on Civil and Political Rights,Aiming At the Abolition of the Death Penalty(死刑廃止を目指す市民的及び政治的権利に関する国際的規約第2選択議定書)」が1989年12月15日に国連総会で採択された。これは、1966年12月16日に採択された「市民的及び政治的権利に関する国際規約」の第6条1項『すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によつて保護される。何人も、恣意的にその生命を奪われない』より、死刑の廃止が望ましいことを強く示唆する文言をもって死刑廃止に言及している。団藤重光(1913-2012 東京大学名誉教授・日本学士院会員・文化勲章受章者・最高裁判所判事)によって1条から11条まで訳されている。1条が最も革新的な部分であるため、ここでは2条~11条の記載は省略する。

第1条 1 何人もこの選択議定書の締結国の管轄内にあるものは、死刑を執行されない。 2 各締約国は、その管轄内において死刑を廃止するためのあらゆる必要な措置をとらなければならない。

訳者の団藤重光の考えは、人格形成は無限であり、どんな死刑囚でも最後には立派な心境になることがあり得るため、その可能性を否定してしまうことは許されないのではないか、というものである。

締結国(85カ国)

・アルバニア・アンドラ・アンゴラ・アルゼンチン・オーストラリア・オーストリア・アゼルバイジャン・ベルギー・ベナン・ボリビア・ボスニアヘルツェゴビナ・ブラジル・ブルガリア・カーボベルデ・カナダ・チリ・コロンビア・コスタリカ・クロアチア・キプロス・チェコ・デンマーク・ジブチ・ドミニカ・エクアドル・エルサルバドル・エストニア・フィンランド・フランス・ガボン・ガンビア・ドイツ・ギリシャ・ギニアビサウ・ホンジュラス・ハンガリー・アイスランド・アイルランド・イタリア・キルギス・ラトビア・リベリア・リヒテンシュタイン・リトアニア・ルクセンブルク・マダガスカル・マルタ・メキシコ・モナコ・モンゴル・モンテネグロ・モザンビーク・ナミビア・ネパール・オランダ・ニュージーランド・ニカラグア・ノルウェー・パナマ・パラグアイ・フィリピン・ポーランド・ポルトガル・モルドバ・ルーマニア・ルワンダ・サンマリノ・サントメプリンシペ・セルビア・セーシェル・スロバキア・スロベニア・南アメリカ・スペイン・スウェーデン・スワジランド・マケドニア・東ティモール・トーゴ・トルコ・トルクメニスタン・ウクライナ・イギリス・ウルグアイ・アゼルバイジャン・ベネズエラ

西洋の死刑廃止論

トマス・モア

イギリスのトマス・モア(1478-1535)は、自身が書いた有名な『ユートピア』の中に登場するラファエル・ヒスロディという架空人物に自分の考えを代弁させている。この時代の西欧では、自殺は宗教上だけでなく法律上も罪だった。ここでトマス・モアはキリスト教信者として人を殺す法律を作るなどということは神の諫めに背くものだ、と死刑廃止を強く述べた。この時代、モンテスキューやルソーなどの多くは死刑肯定論者であったため、彼の死刑廃止論は革新的だった。

チェーザレ・ベッカーリア

本格的な死刑廃止論争のきっかけとなったのは、イタリアの啓蒙思想家チェーザレ・ベッカーリア(1738-1794)の蔵書『犯罪と刑罰について』(1764年)であった。彼の死刑廃止論の根本にあるのは、国の権力の作るためにみんなで自由の分け前を出し合うが、すべての利益の中で最大の生命まで分け前として差し出すのはありえないのではないか、という考えである。また、ベッカーリアの有名な言葉に「人間の精神に最も大きな効果を及ぼすのは、刑罰の強さではなくて、その長さである。」というものがある。

チェーザレ・ロンブローゾ

イタリアの医学者、人類学者チェーザレ・ロンブローゾ(1836-1909)は当時学会を席巻していたダーウィンの進化論の立場から犯罪者の研究をした。人体測定によって犯罪者と普通人とを比較した結果、犯罪者は頭蓋骨に、顔面角が大きい、眉弓が張っている、頬骨が出っ張っている、下頬骨が異常に大きいといった猿に似たような特徴があると言い、これを隔世遺伝(先祖返り)と説明した。彼は、生まれつきの犯罪者、ホモ・デリンクェンス「犯罪人」という特殊の人類がいるという考えを持ち、死刑存置者であった。

フランツ・フォン・リスト

死刑存置者たちに対抗したのはドイツの刑法学者フランツ・フォン・リスト※音楽家のリストの従兄弟にあたる(1851-1919)である。彼は、1889年に国際刑事学協会(IKV)をベルギーのアドルフ・プリンス(1845-1919)や、オランダのG・A・ファン・ハメル(1842-1917)とともに結成した。そして、刑罰は犯人を改善するためのものだという改善刑の考えを持ち出した。日本から参加したのは牧野英一郎博士で、彼は教育刑という用語を使用した。やがて時代はヒトラーのナチスの時代に移っていき、吹き荒れた暴虐の嵐と第二次世界大戦の犠牲を経て、世界中の人々が人命の大切さと尊厳を身にしみて痛感することとなった。そしてドイツをはじめヨーロッパ諸国に、また、地球上各地の自由主義の諸国に、確定的に死刑廃止の大きな潮流がおし寄せるようになった。

参考

“United Nations Treaty Collection: Second Optional Protocol to the International Covenant on Civil and Political Rights, aiming at the abolition of the death penalty”2018年1月20日閲覧(https://treaties.un.org/Pages/ViewDetails.aspx?src=IND&mtdsg_no=IV-12&chapter=4&lang=en)

団藤重光著 2000年『死刑廃止論 第6版』 有斐閣

辺見庸著2008年 『愛と痛み:死刑をめぐって』毎日新聞社

HN:カピバラさん


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