江戸時代の教育

出典: Jinkawiki

江戸時代には封建社会の構造に基づいて、士・農・工・商の身分制が確立しており、特に武士と庶民は厳格に区別され、大きく二つの階層に区別されていた。 このことは、江戸時代の社会生活と文化を全般的に特色づけていたが、教育についても基本的には武家の教育と庶民の教育がそれぞれ独自の形態をとって成立していた。

武家の教育

江戸時代の武家は、封建社会において学問を学び教養をつむものだとされ、文の教育が次第に組織化された。 まず藩主は、自らの教養を高めて藩の統治にあたるために、儒学者などを招いて講義させ、重臣たちにもこれを聴かせた。 また、一般の藩士にも学問を奨励し、武芸とともに文の教育をつむことを求めた。 江戸時代の学問は、幕府の方針に基づいて儒学を中心とし、中でも朱子学が正当として尊ばれた。 中世の武家は、寺院において僧侶を師として学問修行に努めたが、近世の武家は、城下に「藩校」という学校を設けて儒学者を師として学問を学んだ。 藩校は、江戸時代の初期には一部の藩に設けられているに過ぎなかったが、中期以後は急速に普及していった。

庶民の教育

江戸時代の庶民は、封建社会の構造に基づいて、庶民としての道徳が要求され、また庶民の日常生活に必要な教養をつむべきものと考えられた。 江戸時代の庶民の教育は、一般に家庭生活および社会生活のなかで行われた。 しかし、江戸時代中期以後は、「寺子屋」が発達し、庶民の子どもの教育機関として次第に一般化して、重要な位置を占めることになった。 寺子屋寺は、庶民の子どもが読み・書きの初歩を学ぶ簡易な学校であり、江戸時代の庶民生活を基盤として成立した私設の教育機関である。 藩校のように東洋の古典などによって高尚な学問ではなく、庶民の日常生活に必要な実用的・初歩的な教育を行う施設であった。 中期以後しだいに発達し、全国に広く普及した。 明治5年に学制が発布され、その後短期間に全国に小学校を開設することができたことは、寺子屋の普及におけるところが極めて大きいといえる。

女子の教育

江戸時代には、女子は男子のような学問による高い教養は必要がないと考えられ、女子は女子としての心得を学び、独自の教養をつむべきものとされた。 女子の教育は主として、家庭内で行われ、封建社会における家庭の中の女子として、また妻としての教養が重んぜられた。 しかし、幕末には、寺子屋に学ぶ女児も増え、女子のための独自の教養施設も設けられた。 幕末において、女子が家庭の外で組織的な教育をうける形態が次第に発達していることは、近代の学校教育に近づいていることを示すものである。


<参考> 文部科学省 http://www/mext/go.jp./b_menu/hakushou/html/others/detail/1317577.htm


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