田沼意次

出典: Jinkawiki

  1.スピード出世

田沼意次は、意行の長男として、享保4年(1719)に江戸で生まれた。母は、意行の妻で、紀伊藩士の田代七右衛門高近の養女である。意次の幼名は龍助。1719年、田沼家の子として江戸に生まれた。父は紀伊藩(和歌山県)の足軽という身分の低い武士だったが、8代将軍となった藩主徳川吉宗に従って、江戸に出てきた。意次は、16歳で次の将軍となる徳川家重のそばに仕えることになった。そして、家重が9代将軍になると信頼されるようになり、やがて1万石の大名となった。同時に幕府の重要な政治や裁判について話し合う場所への出席を命じられた。家重の子、徳川家治が10代将軍となると、家治にも信任されて仕え、遠州国(静岡県)相良に城を築いた。1772年には、老中となって幕府の実権を握り、石高も次第に増えて5万7000石となった。意次が実権を持っていた10代将軍家治の時代、大阪だけでも80件の株仲間が認められた。


2.田沼意次が実施した政策

意次が実施した政策は、大きく5つに分けることができる。

【商業への課税】

特定の品物の販売を独占する「株仲間」を積極的に公認するかわりに、「運上金・冥加金」という税金を徴収した。運上とは、主に各種の営業に課した租税のことである。冥加金とは、営業上の特権、権利などを与えられたお礼に差し出す献納金のことである。田沼時代の幕府は、運上の増加を積極的に追求した。享保の改革の際に、江戸十組問屋、大阪二十四問屋の株仲間を公認して営業上の権利を認め、その見返りとして一組につき一年に100両の冥加金を上納させた。

【幕府による専売制度】

朝鮮人参や銅、真鍮などを幕府の専売とした。

【貿易の振興】

銅や海産物(いりこ・ほしあわび・ふかのひれ)を積極的に輸出した。金銀の海外流出を防ぐため、貿易の支払いは海産物を俵につめた「俵物」に切り換えた。

【新田開発と大規模工事】

利根川下流の印旛沼・手賀沼を開拓したり、大規模工事を行うなど、積極的に内需拡大を行った。

【蝦夷地の開発】

ロシアとの貿易を計画し、国後・択捉島を調査させた。田沼の政策は、それまでの幕府の誰もが思いつかなかった発想豊かなものであったが、松平定信をリーダーとする保守派の強い反発を受けることになった。


3.意次の失脚

1782年、東北地方の冷害から始まった飢饉は、翌年の浅間山(長野県)の噴火などもあって、天明の大飢饉と呼ばれる全国的な飢饉となった。米の値段は上がり、百姓一揆や打ちこわしが各地で、しきりにおこった。このような中で、意次の子の田沼意知が江戸城内で殺される事件が起こった。田沼の政治に不満を持っていた人々は、意知を殺した武士を「世直し大明神」ともてはやした。これをきっかけに田沼意次の勢力は衰え、そして1786年、将軍家治が死ぬ直前に老中をやめさせられた。領地も1万石に減らされ、意次は失意のうちに1788年に死んだ。


参考文献:「人物で分かる日本の歴史」 数学研究社 ・ 「田沼意次」 藤田覚著 ミネルヴァ書房
















   


   


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