石川啄木

出典: Jinkawiki

石川啄木(1885~1912)

明治時代の詩人・歌人。 早くして、文学的才能を発揮し、ロマン主義的詩人として、世に知られていった。 貧窮の中に口語による生活詩をつくり、「明星」などに発表。 後の大逆事件に衝撃を受けて社会主義に関心を持つ。


石川啄木の生涯

本名、一(はじめ)。岩手県生まれ。1歳の時に父が渋民村・宝徳寺の住職となり同村が啄木の「ふるさと」になる。小学校を首席で卒業し、地元では神童と呼ばれる。盛岡の中学では4歳年上の金田一京助(後の言語学者)から文学の面白さを教えられ、文芸雑誌『明星』を熟読して与謝野晶子に影響を受け、また初恋にも夢中になった。高まる文学熱と情熱的な恋!反面、学業がおろそかになり、カンニングが2回連続でバレ、落第が決定となったため16歳の啄木は自主退学して上京する。『明星』に投稿した短歌が掲載されたこともあって文学で身を立てるつもりだったが、与謝野鉄幹・晶子夫妻の知遇を得たものの仕事は何も見つからず、家賃を滞納して下宿を追い出され半年も経たずに帰郷する。17歳の時に初めて“啄木”の号を名乗り『明星』に長詩を発表、注目される。

●19歳(1905年)、処女詩集『あこがれ』を刊行!一部で天才詩人と評価される。だが、父が金銭トラブルで住職を罷免され、また中学時代からの彼女と結婚したことで、両親と妻を養わねばならず文学どころではなくなる。

●20歳、小学校の代用教員として働き始める(年末に長女生れる)。

●21歳、住職再任運動に挫折した父が家出。啄木は心機一転を図って北海道にわたり、函館商工会議所の臨時雇い、代用教員、新聞社社員などに就くが、どの仕事にも満足できず、函館、札幌、小樽、釧路を転々とする。函館で出会った文芸仲間・宮崎郁雨(いくう)は啄木の良き理解者で、家族を北海道へ呼び寄せる旅費を出してくれた。

●22歳、どうしても文学への夢を捨てきれない啄木は、郁雨に家族を預けると旧友の金田一京助を頼って再び上京する。金田一は啄木を援助する為に愛蔵の書籍まで処分した。啄木は作家としての成功を夢見て次々と小説を書いたが、文壇ではことごとく無視される。夢が打ち砕かれた啄木は、彼にとって気持ちを吐き出すための“玩具”、すなわち三行の短歌に日々の哀しみを歌い込んだ。

●23歳、前年に与謝野鉄幹に連れられて鴎外の歌会に参加したことをきっかけに、雑誌「スバル」創刊に参加。相変わらず小説は評価されず、失意のうちに新聞の校正係に就職する。親友に預けたままの家族から、肩身が狭いので早く呼び寄せてくれと促される。自由な半独身生活を送っていた啄木は、家族がいては小説の構想に集中できず作品が書けないなどと、家族を迎えるまでの約2ヶ月間の苦悩を『ローマ字日記』に記した(後にこれは日記文学の傑作として文学史に刻まれることに)。家族の上京後、生活苦から妻と姑との対立が深刻化し、妻が子どもを連れて約一ヶ月実家へ帰ってしまう。年末に父が上京。

●24歳、新聞歌壇の選者に任命されるも、暮らしは依然厳しかった。貧困生活の中で左翼的な思想に傾いていた啄木は、6月に大逆事件(天皇暗殺未遂事件=後に当局のデッチ上げと判明)が起きると、国家による思想統制・言論弾圧を深く憂慮して評論『時代閉塞の現状』を書く(死後に発表)。また、“林中の鳥”という匿名で、『所謂今度の事』を書き上げ新聞に掲載を依頼したが掲載されなかった--

「いわゆる“今度の事”について。政府はアナーキストをテロ信奉の狂信者の如く評しているが、実はアナーキズムはその理論において何ら危険な要素を含んでいない。今の様な物騒な世の中では、アナーキズムを紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうけるかもしれないが…もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人がいれば、その誤解を指摘せねばなるまい。無政府主義というのは全ての人間が私欲を克服して、相互扶助の精神で円満なる社会を築き上げ、自分たちを管理する政府機構が不必要となる理想郷への熱烈なる憧憬に過ぎない。相互扶助の感情を最重視する点は、保守道徳家にとっても縁遠い言葉ではあるまい。世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。(中略)要するに、無政府主義者とは“最も性急なる理想家”であるのだ」。

12月、「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人々」「手套を脱ぐとき」の5章551首からなる処女歌集『一握の砂』を刊行。平易な言葉で日常の悲喜こもごもの感情を素直にうたいあげた短歌は、好感をもって歌壇に受け入れられ生活派短歌と呼ばれた。出版で多少の収入を得たが、同時期に生れた長男がわずか3週間で逝き、その葬式代で消えてしまう。

●25歳、前年に続いて大逆事件の公判を追っていた彼は、独自に手に入れた陳弁書から“(主犯とされる)幸徳は決して自ら今度のような無謀をあえてする男でない”と判断していた。それだけに、被告26名中、11名死刑(半世紀後に全員無罪の再審判決)という結果に大きな衝撃を受ける。この頃の詩稿が死後の詩集『呼子と口笛』になった。

●26歳(1912年)、年明けに漱石から見舞金が届く。3月に母が肺結核で亡くなり、翌月に啄木もまた肺結核で危篤に陥る。

屋外で満開の桜が散っていくのと歩みを合わせるように、4月13日に啄木は果てた。死の二ヵ月後、 194首を収めて刊行された『悲しき玩具』は各方面で激賞される。時を同じくして次女が生れた。妻は啄木の遺児を懸命に育てたが、彼女もまた肺結核に冒され、夫の死の翌年2人の子を残して26歳で病没した。その後、長女は24歳、次女は18歳で亡くなり、啄木の血は途絶えた。

啄木が函館に暮らしたのは4ヶ月のみだが、彼はよほど風物やその頃の生活が気に入っていたらしく、生前に「死ぬときは函館で…」と語っていた。1926年、函館山の南東端にあたり津軽海峡を展望する素晴らしい景観の地、立待(たちまち)岬に宮崎郁雨が『啄木一族の墓』を建立した。墓石の前面には『東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたわむる』(一握の砂)という一首が彫り込まれている。


代表作

「一握の砂」 啄木の第一歌集。1910年刊。 病と貧困の中での551首を収め、過去・現在の生活感情を率直に口語調で自由に歌った。

「悲しき玩具」 啄木の第二歌集。1912年刊。 「一握の砂」に続くもので、生活苦・病苦・社会的関心を歌い上げ、彼の遺稿となる。

「時代閉塞の現状」 1910年頃の評論。啄木の死後1913年、「啄木遺稿」で出版紹介された。 自然主義を批判、時代の行き詰まりを告発し国家権力への直観的批判を示す。


参考文献

「日本史B用語集」 山川出版 「歴史用語辞典」 正進社 「石川啄木の生涯」 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/takuboku.html


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成