英国公使館焼打ち事件
出典: Jinkawiki
英国公使館焼打ち 概要 文久2年12月12日の深夜、高杉晋作ら長州藩の攘夷派13名が品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼打ちした。攘夷を決行しようとしない幕府を無理やり対外戦争に巻き込むための行動であったが、幕府はこれに対して何があっても断固たる行動をとろうとしなかった。 品川御殿山 品川御殿山は、沢庵和尚創設として知られた東海禅寺の北にある高台へ、徳川幕府の初期に2代将軍秀忠が参勤交代に来る大名をこの御殿で出迎えたために、この名がついたといわれている。正面には、品川の海をのぞみ、春には寛文年間に大和の吉野山から移植された桜が花を競い、秋には享保年間に植えられたハジが紅葉するという、江戸市民の行楽地であった。各国公使は、この景勝の地に目をつけ、ここに公使館を建設することを要求した。国内からは猛反対が起きたが、結局幕府は列国の要求をのみ、8万両の工費を負担して、各国の公使館を建設することになった。こうして、8月からイギリス公使館が建設され、この時期にはほぼ完成していたのである。 焼打ち これ以前に、松下村塾の門下生を中心に御盾組という攘夷結社を結成していた高杉晋作は、優柔不断な幕府に攘夷を決行せざるをえないようにするためにイギリス公使館の焼打ちを計画した。古来から伝わる軍用の焼玉を用意した一行は、12月12日の深夜、厳重な警戒を突破して建築中のイギリス公使館に潜入、井上、伊藤らが焼玉を使ってこれに放火したのである。これによって幕府は大いに面目を失うことになるのだが、犯人が長州藩関係者と目星をつけたにもかかわらず、何ら処罰的な行動を起こそうとはしなかった。それは、高杉らに幕府与し易しとの印象をますます高めさせることになったのである。
参考文献 幕末維新ガイド まるわかり日本史