菅原道真

出典: Jinkawiki

菅原道真は、平安時代の貴族・学者・漢詩人・政治家。参議・菅原是善の三男。宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐天皇時には右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷され、現地で没した。

菅原家は父祖三代が儒官(儒学をもって朝廷に仕える者)の家柄であり、道真も十一歳にして詩を作るなど早熟の天才であった。幼少のころより詩歌に才能を見せた道真は、元服の頃(十一歳~十六歳)から願文、上表書などの代筆を頼まれ代書したとされる。十八歳にして文章生となった道真は、その後もどんどんと昇進していく。若き宇多天皇は、道真らの文官を起用して『日本三代実録』『類聚国史』などを編纂し、嵯峨天皇に始まる親政(摂政・関白をおかず天皇自ら政治を行う)三代をしのばせるが、そのプランはほとんどが道真一人によって実現されたという。宇多天皇は若いせいもあるが、生活が享楽主義的で、宮中で詩宴を開いたりなど、一切を道真に頼り切って親政政治を続け、時代が大きく曲がり角に差し掛かっていることを知ろうとしなかった。寛平6年(894)年、道真は遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された。

醍醐天皇時にも道真は昇進をつづけ、右大臣となる。しかし、道真の主張する中央集権的な財政に対し、朝廷への集権を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。公地公民を原則とするのが律令制度であるが、それを崩す私有地(荘園)が急増し、富裕な郡司・百姓らが受領(諸国の長官)層と衝突し、中央を脅かし始めていた。荘園勢力に乗っかった藤原一族と、受領防衛にあたった宇多天皇が対立し、道真も反荘園にならざるを得なかった。また、現在の家格応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真のすすめる政治改革に不安を感じ、この動きに同調するものもあらわれた。延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王即位の陰謀ありとが藤原時平より醍醐天皇に讒言され、大宰権帥に左遷される。道真は延喜3年(903年)、大宰府で没する。

道真の死後、京には異変が相次ぐ。延喜9年(909年)に藤原時平が39歳の若さで病死すると、延喜23年(923年)、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王が延長3年(925年)に相次いで病死する。さらには延長8年(930年)、清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た上に、目撃した醍醐天皇も体調を崩し、その後崩御した。これらを道真のたたりだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すとともに贈位を送った。子供たちの流罪も解かれ、京に呼び戻された。 清涼殿落雷の事件は雷神と結び付けられ、火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して怒りを鎮めようとした。以降百年ほど大災害が起きるたびに道真のたたりとしておそれられたが、記憶が風化するに伴い、生前道真が優れた学者・詩人であったことから現在は学問の神として信仰されている。

参考文献 ・面白いほどよくわかる日本史 鈴木 旭 著  日本文芸社 ・日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会 編 山川出版社 ・菅原道真 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F

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