お茶
出典: Jinkawiki
我々が口にするお茶は、9世紀、遣唐使によって中国からもたらされたといい、一部の貴族のあいだに喫茶の風潮が広まるが、遣唐使が廃止されるとすたれてしまった。その後、本格的に茶を普及させたのは臨済宗の開祖栄西であった(12世紀)。栄西は肥前(長崎)で茶の栽培をはじめ、源実朝に茶を献上して病を癒したと伝えられ、以後その薬効が伝えられ、仙薬として上流階級に愛飲されるようになった。京都・平戸・博多・鎌倉など、茶の栽培地も生まれた。
南北朝時代になると、武士のあいだで茶寄合というものが盛んに催された。寄り合いでは闘茶と呼ばれる、産地や良否を当てる賭けが盛んに行われ、高額な賭物がやりとりされた。政府はこれをたびたび禁止したがなかなかやまず、室町時代まで衰えなかった。この時代、茶を愛飲する階層は爆発的に広まり、町には一服1銭の茶屋も現れたほどだった。
そして、今日の茶道の原型である茶の湯を創始したのは村田珠光である。15世紀後半、珠光は喫茶に禅の精神を融合、考案した四畳半の茶室のなかで静かに茶をたしなみ、風雅の境地に遊ぶ喫茶法をはじめた。その風は武野紹鷗に継承され、「わび・さび」という冷え枯れた簡素美を理念とした茶禅一致の「侘び茶」への志向が明確に打ち出された。
茶の湯ははじめ豪商のあいだに流行し、やがて戦国大名たちも熱中。天下人の織田信長や豊臣秀吉が熱心したことから、諸大名も茶道を召し抱え、高価な茶道具の収集に熱を入れ、競って茶室をつくった。滝川一益(信長の重臣)のように、一国の付与より名茶器の下賜を主君に望む武将が現れるほどであった。
村田珠光→武野紹鷗と伝えられた茶の湯(侘び茶)は、戦国時代後期に登場した千利休によっていっそう洗練され大成される。利休は秀吉の寵愛を受け、天下第一の茶匠と呼ばれ、その権威は絶対的で、茶器の価格はすべて利休の目利きによって決まったほどだったという。けれど、黄金の茶室に代表される秀吉の豪奢な茶と、利休のまざすわび・さびの茶は次第に対立するようになり、1591年、利休は秀吉から自殺を強要された。しかし、利休の精神は弟子や子孫に脈々と受け継がれ、江戸時代には儒教思想が茶の湯に取り込まれ、芸道としての茶道にまで高まってゆくのである。
参考文献・URL
・日本史B用語集(山川出版社)
・早わかり日本史(日本実業出版社)
・ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%81%93