ひめゆり学徒隊

出典: Jinkawiki

目次

概要

1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊で,沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された部隊。一般的にはひめゆり部隊と呼ばれる。白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊の8つの学徒隊が他にも存在した。およそ90日間にわたって組織・運営され,短期間ではあったものの死傷者は数多く出てしまった。

名前の「ひめゆり」とは花の「ひめゆり」ではなく,沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来である。元々は安里川にかかる粗末な橋から転落死した一高女生徒を悼み,昭和初期に安全な橋に掛け替えられた橋に「姫百合橋」と名付けたことが起源で1940年代には女師および一高女の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど,両校の通称として「姫百合」の名が定着していた。

米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日に両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は,沖縄陸軍病院に看護要員として動員された。沖縄陸軍病院は沖縄守備軍の直轄で,本部・内科・外科・伝染病科に分かれていて,学徒隊は全員が分散配置された。昼夜関係なく働かされていた。

拠点を移した6月には医薬品や食糧も底をついていた。 6月18日突如軍より解散命令が下される。 この後,壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ,兵士や学徒の多くが死亡し生還者はわずかであった。

生き残った者でも荒崎海岸に追い込まれ自決したものもいた。 「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち「解散」後の死者が128人であることが示す通り,軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだといえるだろう。

活動内容

「看護活動」という名目ではあったが,そこはまぎれもない戦場で「陸軍病院」とは名ばかりであった。実際は非常に過酷なもので負傷兵の看護・排泄物の処理・水くみ・食事の運搬・伝令・死体の埋葬がなされていた。

壕の中には血と膿と排泄物の悪臭が充満し負傷兵のうめき声,怒声が響くばかりの場所だった。

ひめゆりの塔

1946年4月7日除幕。

沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

現在の沖縄県糸満市にある。

映画

「ひめゆり部隊」を描いた映画として,

1953年『ひめゆりの塔』(今井正監督/津島恵子主演=東映)

1962年『あヽ ひめゆりの塔』(吉永舛田利雄監督/吉永小百合主演=日活)

1982年『ひめゆりの塔』(今井正監督/栗原小巻主演=芸苑社/東宝)

1995年戦後50年記念映画「ひめゆりの塔」(神山征二郎監督/沢口靖子主演=東宝) があげられる。


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