アイゼンハワー
出典: Jinkawiki
ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower, 1890年10月14日 - 1969年3月28日) アメリカ合衆国の軍人、政治家。ヨーロッパの連合軍最高司令官。 第34代アメリカ合衆国大統領となり、冷戦初期のアメリカを率いる(在任1953年~1961年)。アメリカ的なリーダーの代表的な人物。
軍歴
アイゼンハワーは1911年6月に、アメリカ合衆国陸軍士官学校(ニューヨーク州ウェストポイント)に入学し、1915年に卒業した。彼はテキサスとジョージアの様々なキャンプで1918年まで歩兵と共に、また1918年~1922年まではメリーランド州キャンプ・ミード等で戦車隊と共に軍務に就いた。
1917年に大尉、1920年に少佐に昇進し、次いで1922年~1924年の間にパナマ運河地帯でフォックス・コナー将軍の副官の地位にあった。1925年と1926年には、カンザス州フォートレヴェンワースで指揮官および参謀学校に着任し、次に、1927年までジョージア州フォートベニングで大隊指揮官を務めた。
1920年代の終わりから1930年代の初めまで、アイゼンハワーの軍歴は停滞した。アイゼンハワーはアメリカ戦碑委員会に着任、その後ジョン・パーシング将軍によってワシントンD.C.の陸軍戦争大学での奉職を余儀なくされた。そして次に、ジョージ・V・モゼリー将軍(国防副長官、1929年~1933年)の副官を務めた。その後、アイゼンハワーは1935年まで陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサー大将の主任補佐武官を務め、マッカーサーがフィリピン政府の軍事顧問を務めることになった時、これに同行した。その後、1936年に中佐に昇進した。
アイゼンハワーは第二次世界大戦が発生した1939年にアメリカへ戻り、1941年6月にテキサス州フォート・サム・ヒューストンで第3軍の司令官ウォルター・クルーガー将軍の参謀長に任命された。アイゼンハワーは1941年9月に准将に昇進した。アイゼンハワーの管理能力は注目されたが、第二次世界大戦へのアメリカの参戦前夜においては、実戦での指揮経験が全く無く、大きな作戦の司令官となる可能性は極めて薄かった。
1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の後に、アイゼンハワーは1942年6月までワシントンで参謀に着任した。彼は戦争計画部門の主任レナード・ゲロー将軍の元で太平洋防衛の主任代理に指定され、更にゲロー将軍の後任となった。その後、アイゼンハワーは参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の下、首席助手補佐官に指定された。上級司令官の地位へアイゼンハワーを導いたのは、マーシャルとの緊密な関係だった。マーシャルはアイゼンハワーの卓越した管理・統率能力を認識していたのである。
Wikipedia「ドワイト・D・アイゼンハワー」より引用。