アイヌ民族5
出典: Jinkawiki
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アイヌ民族
「アイヌ」とはアイヌ語で神に対する人間を意味する。このアイヌ語を話す人々は、北海道を中心にサハリン南部と、千島列島は北東端の主務種痘まで、そして青森の一部にも住んでいた。1804年のこれらの地域のアイヌ人口は2万3797人であり、その後は減少したが2006年の時点では2万3782人を数える。 「エミシ」の語義についての見解が「ユミシ」=「弓ー人」=「弓ー師」が「エミシ」に転訛したという日本語説がある。八世紀後半ごろからは「蝦夷」の表記はしだいに「賊」や「敵」という表現に変わっていく。「蝦夷」の理念的な認識は後景に退き、現実の「蝦夷」が具体帝に認識されていった。九世紀以降の資料に見え始める「異類」という認識は「蝦夷」認識の変化を示す表現である。「異類」が使用する「夷語」で、みずからを指す「エゾ」が集団名として呼称されるようになった。
アイヌのルーツ
更新世の終わりころまでに、後期更新世人類が東アジアや東南アジアから西・南周りのルートで陸橋を通って日本に到達した。その後、この子孫が列島全体にひろがり、縄文人となった。ただし更新世の終わりころに寒冷地適応を遂げた北方モンゴロイドが北回りで移住し、縄文人の形質に影響を与えた可能性があるという。つまりアイヌは、基本的には盗難アジアや東アジアから日本列島にやってきた後期更新世人類の子孫ということになる。アイヌのの先祖である古代の擦文人はサハリンから道東オホーツク海沿岸になんかしてきた北方モンゴロイドの「オホーツク文化」人を同化していった、北海道アイヌの骨の携帯は道東と道西で差が多きく、とくにオホーツク海沿岸のアイヌは顔面頭蓋の幅も高さも大きいという地域差をみせていたが、これは古代におけるオホーツク人の同化がかかわっていると考えられている。アイヌや縄文人、あるいは後期旧石器人がそれぞれ純粋に固有の形質を保ってきたわけではない。
アイヌ文化
北海道の考古学では、「擦文文化」以降、つまり中近世の遺跡からみつかる物質文化(鉄鍋・漆塗椀・儀礼具の捧酒箸・骨格製狩猟具・サケ捕獲用の鉤銛・平地住居・足を延ばした埋葬姿勢の土葬墓など)の組み合わせをいう。さらにこの考古学的な「アイヌ文化」は、時代区分の名称ともなってきた。
擦文文化
8世紀~12,13世紀とされる。日本考古学上においても、続縄文時代に接続する特異な、すぐれて古代東北的にして北海道的な擦文文化は遺跡の分布状況が東北北端~北海道道南部に集中していた。こうした分布状況から推して、擦文文化の直接的な担い手は、「エビス」すなわち「エゾ」=「アイヌ」の全身であり、アイヌ文化の祖型であるといわれる。遺跡の所在は、下北半島および津軽半島に集中しており、同南部との交流から考えて、擦文文化がアイヌ文化の祖型といわれる所以もここにある。東北北部の土師器文化の影響を受けて8世紀に成立し、12,13世紀まで存続したこの擦文文化の特徴は、土器製法では土師器製法をついだ擦痕のある土器製法、住居様式では従来の円型竪穴に代わるカマドを伴う隅九型の竪穴住居、金属製品や陶磁器の流入では太刀、蕨手刀、鉄鏃、鉄鎌、鉄斧、須恵器、珠洲焼の点において顕著であった、擦文文化にはオオムギ・アワ・ソバ・ヒエ・などの出土品から、一部農耕を伴っていたと考えられているが、主たる経済的基盤は、サケ・マス漁を中心にした狩猟であった。
生死・葬送感
アイヌは今ここで死んだとしても、神の国つまりこの大地の裏側にこことまったく同じ土地があり、そこには先に死んでいった先祖たちが待っていると信じていた。したがって引導渡しのとき、たくさんのおみやげを持って神の国に待っている先祖たちのところへ行くようにすれば、先祖たちがあなたをここ江尾浴迎えてくれるであろうという意味の言葉がある。アイヌの葬式を主宰するのは、引導渡しという金補の男性である。葬式に必要な墓標を責任をもってつくった導師は、死体を前に火の神への報告を兼ねて自らの導師としての認知を求めていう台詞があるという。
シャクシャインの戦い
背景には、反和人、反松前の気運がアイヌ社会のうちに広がっているという事情があった。弘前藩の調査では米一表を7~8升いりに減ずるという米の値上げを一方的に行っている。アワビの引き渡しが一束でも不足すると、子供を質に取るなどと脅す。和人の大網による鮭漁に抗議すると乱暴に打ちたたかれたなど、さまざまな不満が知られていた。またこのころ、松前藩はアイヌの人々が松前へ出向いて交易することを禁止した。アイヌは蝦夷地各地を訪れる和人の商人を待って、その承認とのみ交易をしなければならないように体制を改めて、それを強制するようになっていた。抗議のために松前へ出向いた長老は首を切る、ひげを切るなどと脅され、憤慨して帰郷すると蜂起をよびかけた。不満を積み重ねており、シャクシャインに呼応する勢力も多かった。松前藩はクンヌイをを固め、鉄砲の威力でアイヌ勢を撃退し、城下をうかがわれる機器を乗り切っている。弘前藩の蝦夷地新劇はなかったが、幕府の支持による支援の大きな誇示であった。鉄砲の威力、幕府の威勢、弘前藩の圧力でアイヌ勢への威圧、分断を進めながらシャクシャインの本拠地シブチャリへ迫っていった。シャクシャインは和議交渉の場へ出てゆかざるを得なかった。そして、和議成立の祝賀の機会に謀殺されてしまった。シブチャリのチャシも攻め落とされて、シャクシャインの戦いは終わった。
戦いのあと
シャクシャイン謀殺のあとも2~3年の間、事後処理の出兵が繰り返されていた。各地のアイヌ勢に「起請文」をもって起伏を誓わせるためであった。「起請文」には和人への服従、乱暴の禁止、他国との交易の禁止、交換比率の確定などが書き込まれている。松前藩の要求に服させる内容をあげているのである。交易はすぐには回復せず、蝦夷地産物の集荷も商船の来航も激減して、米も入荷しなかったので、武士も畑作で食料を得なければならなかったという。
参考文献----
『アイヌ史のすすめ』 平山裕人
『アイヌ民族の歴史』 関口明 田淵宏 桑原真人 瀧澤正
『アイヌと「日本」』 佐々木馨
『アイヌの歴史』 瀬川拓郎
『アイヌと縄文』 瀬川拓郎