アイルランド民族主義

出典: Jinkawiki

ブリティッシュ(イギリス人)とは別の民族であるとして自治、独立を求めるアイルランド人の主張。

これに対して、自らをブリティッシュと自認してイギリスとの連合の維持を求める主張をユニオニズムという。

イギリスのアイルランド支配は12世紀にさかのぼる。

アングロ・サクソン人やノルマン人の侵入に対して、先住のケルト人は伝統的な社会を守り続け、むしろ侵入者を同化させる傾向が強かった。

ケルト化したイギリス人を本国では「堕落イギリス人」とよんだくらいである。

しかしイギリスにおける絶対王政の確立とともに土地没収とケルト人首長の貴族化が進み、17世紀はじめのアルスターの蜂起(ほうき)をもってケルト人の抵抗はほぼ終わった。

17世紀なかばのイギリスのピューリタン革命に際して、アイルランドではケルト人とカトリック・イギリス人の抵抗という形で蜂起が起こり、このときからイギリス本国に対する抵抗はケルト、アングロ・サクソン、ノルマンという人種の枠を超えたものになっていった。

名誉革命(1688)でアイルランド・カトリックの抵抗が敗れた後、17世紀末から18世紀にイギリスの植民地支配が本格化すると、その抵抗は主として長老派(プレスビテリアン)である都市の中産階級が主体となった。

アメリカ独立戦争ではフランスが独立を支援してイギリスに宣戦したため、イギリスがフランス軍侵入の危険を説いてアイルランドに義勇軍を結成させた。

それらはプロテスタント中産市民で構成されていたが、自由貿易、自治議会の要求と並んでカトリック解放を要求し、「人間として、キリスト者として、アイルランド人として」当然の権利であると主張した。

1798年の蜂起が敗れて1801年に併合されるとアイルランド人のイギリス人化が進んだ。

しかし一方ではケルト文化にアイデンティティを求めて人種、宗派を超えたアイルランド人としての民族意識も強まった。

42年に週刊『ネイション』を発行したグループ、青年アイルランド党はこの民族主義を強烈に打ち出した。

当時約850万の人口が約200万も減少した大飢饉(ききん)のなかで決行した48年の蜂起は、もともと啓蒙(けいもう)活動を主にしてきたかれらが悲劇的な状況で武装蜂起を決意したもので、簡単に鎮圧されたが、その伝統は19世紀後半アイルランド共和主義同盟IRB(フィニアン)に受け継がれた。

19世紀後半はアイルランド国民党が自治を求める穏健な民族主義を担い、IRBが武力による独立の共和国を求める急進的民族主義を担った。

両者は対立もするが、国民党の議事妨害戦術にIRBがかかわったり、土地戦争に国民党がかかわったりと連携もし、イギリスのアイルランド問題を深刻にしていった。

20世紀初めまではカトリックがナショナリスト、プロテスタントがユニオニストという形ではなく、ゲール語復興運動の指導者ハイドも国民党の指導者パーネルもプロテスタントであった。

国民党には多くのプロテスタントが加わっていたし、プロテスタントが住民の3分の2を占める北アイルランドのイギリス下院の議席もユニオニストとナショナリストが分け合っていた。

1912年、第三次自治法案の成立が必至となったとき、ユニオニストの反自治派がカトリックの脅威をあおってプロテスタントを反自治に集めたことからプロテスタントはユニオニスト、カトリックはナショナリストというパターン化ができあがった。

現在の北アイルランド紛争では北アイルランドの将来を巡ってこの両者が対立の基本構造となっている。


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