アパルトヘイト政策3

出典: Jinkawiki

目次

アパルトヘイトとは

南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のこと。 それまでも数々の人種差別的立法のあった南アフリカ共和国において1948年に法制として確立され、以後強力に推進された。 しかしながら、1980年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの直接的な経済制裁や、当時最大の貿易相手国であった日本に対して国連が非難決議を採決するなどにより経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後アフリカ民族会)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は完全に撤廃された。

南アフリカ共和国はこの政策のため各国から経済制裁を受けたことをはじめ、選手団が1960年のローマオリンピックを最後に1992年にバルセロナオリンピックで復帰するまで近代オリンピックから追放されるなど文化交流分野を含む制裁措置を受けていた。1952年からは毎年国連総会において非難決議が採択され、1961年にはイギリス連邦から激しい非難を受けて同連邦から脱退するなど他国からは絶えず差別的として非難を受け、1973年には国際連合総会で採択された国際条約において人道に対する罪と糾弾されたが、1980年代にいたるまでは他国の非難はアパルトヘイトに影響を及ぼすことはできなかった。

職業

黒人は白人が経営する農園や工場で働き、1970年には平均して白人の工業労働者は黒人の6倍、白人鉱業労働者は黒人の21倍の給料を得るようになっていた。

アパルトヘイト以前から存在した上記の1911年の「鉱山労働法」、1913年「原住民土地法」、1926年の「産業調整法」をはじめとする各種法律によって、黒人には低賃金所得のみがあてがわれ、南アフリカの資本主義は発達した。就業制限に限らず、こうした方針は「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展するべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」という多文化主義による合理的な政策であると主張されていた。

居住について

住む家は、空き地に粗末な小屋を立てて生活する人たちも多勢いた。人種区分は曖昧で、兄弟姉妹が別々の人種と判じられ強制移住が強いられることもあった。白人と黒人の居住区及び生活圏を法的にくっきりとわけることにより、白人の安全を確保し、また、黒人に白人の生活をみせないことにより、格差感情を和らげるのが目的であった。このためアパルトヘイトは「空間的差別」とも呼ばれる。差別される側の黒人は約2500万人、インド系住民約90万人に対して、白人は490万人程度である。

撤廃

1991年から1994年までの3年間、南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。1993年4月に極右の白人議員の指示によって一人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だったクリス・ハニを殺害したことは、とりわけ記憶されていいだろう。そしてようやく、1994年4月に全人種参加の初の総選挙が行われ、憲法が制定され、ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトが完全に撤廃された。

参考 ブリタニカ国際大百科事典


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