アフガニスタン1
出典: Jinkawiki
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現在のアフガニスタン
現在のアフガニスタン・イスラーム国は、陸地で囲まれた64万7500平方キロメートルの面積を持つ国で、フランスよりもいくらか大きい。南側と東側は、2430キロメートル以上にわたってパキスタンと接している。北西側では、山脈の高地の中で中国と非常に短い国境(76キロメートル)を共有している。北側に位置する2つの隣国はタジキスタン共和国(国境は1206キロメートル)とウズベキスタン共和国(国境は137キロメートル)である。北西側にはトルクメニスタン共和国(国境は744キロメートル)があり、アフガニスタンの西側はイラン・イスラーム共和国と境を接している(国境は936キロメートル)。 アフガニスタンの現在の推定人口は、悪評で知られるように、不明である。1978年時点で、専門家は約1500万人という数字を受け入れている。1978年4月27日の共産党主義者による政変以後、とくに1979年のクリスマスに始まったソ連軍のアフガン侵攻の後、約500万人の難民が国を逃れた。数10万人が戦争中に命を失ったが、戦争は1989年2月15日にソ連軍が完全に撤退した後も続いた。それ以降、アフガニスタンに帰還した難民の人数も不明であるが、現在の政情を支配している内戦から逃れようとしている新たな難民の正確な数字もまた不明である。2000年の『CIA事実報告』は、約120万人のアフガン人が依然としてパキスタンに、そして、約140万人がイランに残っていると見積もっている。さらに明らかなことは、これらすべての大変動や激変にもかかわらず、実際にはアフガニスタンの人口はかなり増加しており、推計では2000年の中頃で約2600万人となっている。しかしながら、信頼すべき情報と数値は欠如しており、それゆえ、ここでのアフガニスタンに関する記述と人口は、おもに1979年以前の状況に基づいている。
諸民族
歴史を通じて、アフガニスタンには多くの民族集団が暮らしてきた。彼らは西から、東から、南からそしてとくに北方の中央アジアの大草原地帯や砂漠からやって来たのである。アフガニスタンの民族集団に関する最近の研究では、約55の民族名が挙げられている。言語に基づいて、これらの諸民族は、大まかにイラン系(とくに、バローチ人、パシュトゥーン人とタージーク人)、トルコ系(おもに、トルクメン人、ウズベク人)とその他に分かれる。しかしながら、十分に了解されるべきことは、言語はつねに明確な民族的な指標とはならない、ということである。たとえば、中央アフガニスタンのハザーラ人は、現在では(イラン系)ペルシア語(ファールスィー、あるいはダリ―)を話すが、明らかにトルコ・モンゴル起源なのである。
パシュトゥーン人
パシュトゥーン人は伝統的にこの上なくアフガン人であり、他のアフガニスタンのすべての民族集団はもう1つの別の名称を持っている。パシュトゥーン人はまた、人口に占める割合においても最も大きく、約40から50%を占めている。それゆえ、19世紀という最近まで、アフガニスタンという名前は、デュランド・ラインの両側に沿って広がるパシュトゥーン人の住民を示すためにのみ使われていた。その一方、現在のアフガニスタンの西部と北部は、一般的に、それぞれホラーサーンと(小)トルキスタンとして知られていた。 パシュトゥーン人は、パシュトー語あるいはパフトー語を話すが、それはイラン系の言語であるため、ペルシア語(ファールスィー)、クルド語、バローチ語などと関係がある。アフガニスタンでは、ダリー語と呼ばれるペルシア語とともに、2つの公用語のうち1つとなっている。また、アフガニスタンとパキスタンにおけるほとんどのパシュトゥーン人はイスラーム教徒であり、そのほとんどがイスラーム教の2大分派のうちの1つであるスンナ派に属する。 そして、パシュトゥーン人は一般に独立意識、平等性、個人的名誉、つまりナング(ファールスィー語で「名誉」)、そして好戦性で知られている。彼らの名誉に関する掟、すなわちパシュトゥーンワーリー(あるいはパフトゥーンワーリー)は多くの研究の主題となってきた。その主要な側面は、歓待、庇護、復讐と関連している。少なくとも理論上は、集団に属するすべての成年男子が平等であるということは、パシュトゥーン人の生活における重要な原則の1つである。 パキスタン、そしてとくにアフガニスタンにおけるパシュトゥーン人の女性は、いまだにブルカ(あるいはチャードリー)という、顔を含めた全身を覆う衣服を身に着けている。その衣服は、着用者の視覚を確保するために目の部分が方形の網状になっている。その下にはズボンと袖の長い服を着る。パシュトゥーン人の男性もまた、服装によって認識することが容易である。通常、暖めでだぶだぶのズボン、丈の長いシャツとチョッキを身に着けている。また彼らはサンダルを履くことを好む。多くのパシュトゥーン人はいまだにターバンを巻き、片方の端を肩に緩く垂らしているのが特徴である。現在ターバンは、とくにターリバン支配地域で着用されているが、そこの男性はしばしば白い縞の入った黒いターバンを巻いている。ほかの場所では、チトラーリー帽がずっと一般的になってきている。
タージーク人
アフガニスタンには、イラン語系のペルシア語、一般的にはダリー語と呼ばれる言語を話す人が数多くいる。このような人々の中に、おもに大きな都市や国の北東部に暮らすタージーク人がいる。彼らはアフガニスタンの住民の中でも最も古くから居住している階層の1つである。ふるくは、タージークという名は、遊牧民が中央アジア南部やアフガニスタンやその近隣の地域のスンナ派のペルシア語を話す定住民に限定されるようになった。しかし近年、タークージという名は非パシュトゥーン人でペルシア語を話すアフガニスタンの人々を指して使われるようになってきており、このことは、すべてのペルシア語話者をファールスィーワ―ンと呼ぶパシュトゥーン人の慣習と比較できる。しかしながら、アフガニスタンの西部に住むペルシア語話者は通常、別の民族名称を持っており、「厳密な意味での」ファールスィーワーンはアフガニスタン西部のヘラートやその周辺に住むシーア派である。アフガニスタンの「真の」タージーク人はおもにアフガニスタン北東部で暮らしている。もっとも、彼らは自分たちの故地によって認知されることを好み、タージークという語を軽蔑的な語とみなしているということは十分に了解されるべきである。
ヌーリスターン人
アフガニスタンにおけるもう1つの主要な集団はヌーリスターン人である。隣人たちとはかなり異なっている言語と文化のために、広範囲にわたる研究の対象となってきた。ヌーリスターン人はカーブルの北東、ヒンドゥークシュ山脈の分水嶺の南側に位置する、西のアリ―ンガール川と東のクナル川に挟まれた隔絶された山中に暮らしている。その地域はヌーリスターン(「光の土地」)と呼ばれているが、アミール・アブドゥッラフマーン・ハーンが1895/6年の冬に征服する以前は、(外部者には)カーフィリスターン(「異教徒の土地」)として知られていた。というのも、そこの住民が非イスラーム教徒であったからである。 ヌーリスターン人の人口は、1979年以前から一般に約10万人と考えられている。彼らは親族関係にある言語の方言を話す。これらのいわゆるカーフィル諸語はインド=イラン語派に属しており、それゆえ(ヒンドゥー語を含む)インド=アーリア諸語やイラン諸語(たとえばファールスィー語、バローチ語、パシュート語)と関係がある。カーフィル諸語はおそらく、本質的にはインド=アーリア語でもイラン語でもない、第3の支派を構成しているのであろう。 彼らの社会は部族的で、寡頭制であった。女性の地位は低く、一夫多妻制が普通であった。親族の貧しい男性が家畜の世話をする傾向があった。独立した階級を形成する職人もおり、そして奴隷もいた。奴隷の大部分は、カーフィル人はまた、物事の「浄」と「不浄」に関する強い意識を持っており、その2者を分ける複雑な規則の体系を守っていた。ワインの飲酒、動物の供犠、司祭や聖歌の歌い手の存在、供犠の使用などすべてがインド=イラン系の古代宗教との密接な関係を示唆している。
自然環境
アフガニスタンは、イラン高原の大部分を横切る不毛な半砂漠帯の一部をなしている。乾ききった暑い夏と、たくさんの雪が降る寒い冬は常に変わらない特徴である。冬には1800メートル以上の山々の大部分が雪に覆われる。3月には雪が解け始め、川は増水する。それゆえ、アフガニスタンの川は春に最大の水量となり、しばしば洪水を引き起こす。このような共通する特徴を除けば、アフガニスタンの気候的な差異は大きく、北部が中央アジアからの冷たい風にさらされている一方で、山岳地帯の南西側ではインドの季節風の影響を受けている。年平均の降水量は、非常に乾燥した国の南西部で75ミリ、(北アフガニスタンの主要都市である)マザーリ・シャリーフで213ミリ、東部のガズニーで213ミリ、サーラング峠の上方では非常に多い1150ミリといった範囲にある。 植生もまた同じように多様である。東部の標高552メートルにある現在のジャラーラーバードの町の周辺では、植生は亜熱帯性で、ヤシの木であっても生育が可能である。その約100キロメートル西の依然としてヒンドゥークシュ山脈の南側に位置するカーブル河谷沿いの高地では、植生は非常に異なっている。カーブルそのものは標高1803メートルに位置し、この付近の樹木としてはオークやクルミ、ハンノキ、トネリコ、ネズミサシが挙げられる。山脈の北側では砂と黄土が大地を覆い、ステップ性の植生となっており、もしも適切に灌漑されれば豊かな農作物を産する。南および西アフガニスタンでは、植生は最低限である。この地域の景色は、大部分のイラン高原で典型的な岩石砂漠であるいわゆるダシュト、もしくは南アフガニスタンのレーギスターン砂漠のような石の多い荒れ地(レーグ)で占められている。
オバマ政権が与えた影響
国際治安支援部隊(ISAF)などは、オバマ政権の米軍増派が事態をさらに悪化させるということをよくわかっているはずなのである。麻薬などの輸出も軍閥の手によって行われ、それが武器を買い入れるための手段とわかっていながら、政府や軍隊は取り締まるどころか支援さえしている。国民はそんな政府にあきれ果てているのが実態である。アフガニスタン国内はこのような実態なのに、2009年、オバマ米大統領はアフガニスタンを「対テロ戦の主戦場」と位置づけ、約2万1000人の兵員の増派を発表した。 今現在、アフガニスタン国内で治安を維持する目的で活動している米軍をはじめ国際治安支部隊は10万人を数え、今年8月に行われた大統領選挙の際には、アフガニスタン政府軍や警察と合わせると、約20万人が選挙の成功を目指して出動されました。米軍や英軍はこのように派兵規模を拡大してきたが、2009年の英軍の死者は189人とイラクでの」死者の179人を上回った。英国内では、この犠牲者の増加に対して国民の反発が日ごとに増し、増兵を拒む結果を生んでいる。米軍にしても753人と、多大な犠牲を強いられており、オバマ政権が描いた増派のシナリオにも影を落としている。 アフガニスタンでは、武力のみで解決できないことも多く、そのような時には、民族や部族の長老が集まって協議で治安や紛争を解決することも古くから習慣として行われてきた。最新の武器に頼らず、古来の知恵を活かすことも忘れてはならない。
東京開催 アフガニスタン復興会議
アフガニスタンの復興の必要性を国際社会に認識させるため、2002年1月21日、東京で国際会議が開かれた。60ヵ国、22国際団体が参加したこの会議の議長は、アメリカのパウエル国務長官と日本の田中真紀子外務大臣、そして緒方貞子アフガニスタン支援政府特別代表の3名であった。この会議で、多くの国々が多額の援助金を約束した。日本の支援は医療保健分野、警察組織支援、教育支援、そして一部の道路などのインフラ整備が主体であった。2日間の協議で、日本政府が5億ドル(2年半)、アメリカは1年で2億260万ドルなど、総額で30億ドルの支援金が約束された。これに対してカルザイ大統領は、効率性や透明性のある国家をつくることを宣言した。
参考文献
アフガニスタンの歴史と文化 ヴレム・フォーヘルサング=著 前田耕作、山内和也=監訳 明石書店 知ってほしいアフガニスタン 戦禍はなぜ止まないか レシャード・カレッド 高文研
ハンドル名:Nari