アフガン戦争12

出典: Jinkawiki

目次

概要

 19–20世紀に起きたイギリスとアフガニスタンの戦争。近現代にアフガニスタンを舞台に起こった諸戦争のうち、特に19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリスの間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。第一次(1838年 - 1842年)と第二次(1878年 - 1881年)のアフガン戦争は19世紀に繰り広げられたグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であり、第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国とした。アフガン戦争は狭義にはこの二度の戦争を指す。第三次アフガン戦争(1919年)は第一次世界大戦直後に行われた戦争で、アフガニスタンがイギリス領インド帝国に攻め込んで独立を認めさせた戦争である。


 

第一次アフガン戦争

 現在のアフガニスタン国家の原型となったドゥッラーニー朝を築いたパシュトゥーン人のサドーザイ部族(英語版)の王家が1818年に統一を失った後、1826年にドゥッラーニー系部族、ムハンマドザイのドースト・ムハンマド・ハーンが代わって権力を握り、バーラクザイ朝国を創始。シク王国のランジート・シングは、ドゥッラーニー朝の旧王家サドーザイ部族のシュジャー・シャーを支援し、1834年にシュジャー・シャーが最後の反撃をバーラクザイ朝に加え、敗北はしたもののランジート・シングがペシャーワルを獲得した。1835年にドースト・ムハンマドがアミール・アル=ムウミニーンを称してバーラクザイ朝アフガニスタン首長国を興した。1837年、アフガニスタン首長国が勝利した結果、シク王国の影響力はカイバル峠までとなった。イギリスは、ロシア帝国の南下政策に対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求した。ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。ロシアの進出を警戒したイギリス(1837年からヴィクトリア時代)がアフガニスタンを侵略し、カーブルを占拠するが、反英闘争が起こりイギリス軍は撤退した戦争。1837年にイランのカージャール朝軍がロシアの支援(というより命令)を受けてアフガニスタン西部を侵略したことに危機感を持ったイギリスが、1838年にインド総督府軍を送り、カーブルにはいる。これによってイランにアフガニスタンの独立を認めさせた。しかしイギリス兵のアフガン女性への暴行などが続き、1841年、激しい反英活動が起こり、イギリス軍が撤退。その途中でインド兵、一般人を含むイギリス軍が、アフガン軍の追撃により全滅するという敗北を喫した。42年にはイギリス軍が捕虜奪還のため再出兵し、カーブルを破壊した。 その後、ロシアは1853年のクリミア戦争に敗北し、イギリスは1857年のインド大反乱などインドでの民族抵抗に手こずっため、一時的に両国ともアフガニスタンに余力を割くことができなかった。イギリス国内ではアフガニスタンへの積極策と消極策が対立していたが、1874年に保守党のディズレーリ内閣が成立し、積極外交が採られることとなった。一方ロシアの中央アジア進出も活発になり、中央アジアのブハラ、ヒヴァ、コーカンド三国に勢力を伸ばし、さらに1877年からオスマン帝国との露土戦争を開始した。


第二次アフガン戦争

 イギリスがアフガニスタンを保護国化した戦争。復位後、1855年にイギリスとの間でペシャーワル条約を結んで領土の相互保全を約し、北と西で現在のアフガニスタンの領域へと支配を広げたドースト・ムハンマドの死後、兄弟たちを倒して後継者となった息子シール・アリー・ハーンがイギリスとの関係を軽視し、またロシアが1868年にブハラ・アミール国、1873年にヒヴァ・ハン国を保護国とし、1876年にはコーカンド・ハン国を併合して中央アジアへと直接進出する情勢はイギリスを大いに刺激した。1878年にはロシアがアフガン王国に対し軍事同盟の締結を要求したことに対し、イギリスはカーブルへの外交使節の常駐を要求した。アフガン王国がそれを拒否したことを口実に、イギリス軍は再びインドから軍を進め、アフガニスタンに侵攻した。1879年、アフガン王国は外交権をイギリスに渡し保護国となって屈服した。しかし、アフガン兵の反乱部隊によりイギリス使節団が殺される事態となり、イギリスはただちに報復のため軍隊を増派した。ところが1880年7月のマイワンドの戦いではアフガン軍に敗れる(19世紀中のイギリス軍の唯一の敗北)結果となった。本国ではグラッドストーン自由党内閣に代わって撤退を命令、イギリスは再び不名誉な敗北となった。その後、イギリスはアフガニスタンの直接統治を諦め、ロシア、イランとの国境交渉を進める。1904年の日露戦争でロシアが日本に敗れたことを機に、ロシアとイギリスの協議が進み、1907年に英露協商が成立してロシアはアフガニスタンをイギリスの勢力圏と認め、さらに第一次世界大戦中にロシア革命が勃発してロシア帝国が崩壊したため、アフガニスタンをめぐるイギリスとロシアの対立は終わる。

第三次アフガン戦争

 第1次(1838~42)、第2次(1878~80)のアフガン戦争でイギリスの保護国とされたアフガン王国が、1919年にイギリス軍と戦い、独立を承認させた戦争。イギリスの後ろ盾を得たアブドゥッラフマーンは従兄弟にあたるアイユーブ・ハーンを追って統一を回復すると、アフガニスタンの近代化に乗り出し、その子ハビーブッラー・ハーンもその政策を継承した。1919年、ハビーブッラーが暗殺され、アマーヌッラー・ハーンが即位を宣言した。アマーヌッラーは第一次世界大戦によってイギリスが疲弊した好機ととらえ、イギリスに対するジハードを唱えて5月3日、カイバル峠の国境に軍を進め、領内のパシュトゥーン人が呼応して反乱を起こすことを恐れたイギリスのインド帝国当局もやむなくこの挑発に乗ってイギリス軍を動員、第三次アフガン戦争が始まった。アフガン王国はイギリスが第一次世界大戦後で疲弊し、インドの独立運動で苦況にあることに乗じて、インドに侵攻し、1ヶ月にわたる戦闘の結果、講和を成立させた。1919年8月にアフガニスタンの外交権回復をイギリスが認め、アフガニスタンが独立国であることが国際的にも認められた。しかし、アフガン王国の悲願であったインド領内のパシュトゥーン人居住地域(インダス川西岸)の領有は認められず、第二次世界大戦後はパキスタンとの間で対立が起きる。イギリスが戦闘では敗北したわけではないのにアフガンニスタンの独立を認めたのは、当時インド国内の独立運動が激化しており、財政的にも苦しくなっていたので、インド植民地の維持を優先させる必要があったからである

第三次アフガン戦争後

 アフガニスタンで、13年間にわたって戦ってきた米軍主体の国際治安支援部隊(ISAF)が任務終了。アフガン戦争の開始自体は、ビン・ラデインとの戦いということを避けられなかったかもしれませんが、その後のイラク戦争については、イラクにおいて結果的に核爆弾等が発見されなかったことから、アメリカ国内においても、本当に必要な戦争だったのかどうかについて疑問がだされてる。アフガン戦争だけであれば、アメリカは今ほどには疲弊しなかっただろう。アフガン戦争の途中でイラクにまで手を出したことによってアメリカ経済は疲弊してしまった。ターリバーン政権崩壊後は、ボン合意によって定められた国連アフガニスタン支援ミッションによって政治と経済の立て直しが行われ、アフガニスタン・イスラム国の再建後はハーミド・カルザイ大統領率いる政府も協力して復興が進められている。当初はターリバーン残党を含む武装勢力の攻勢も弱く、社会基盤の整備が進んでいた。カルザイの大統領就任以前は、ターリバーンから離脱した地方軍閥が勢力を伸ばしていたが、カルザイは民意を盾にして軍閥の力を弱めて来たため、軍閥はほぼ大統領の勢力下に置かれているといわれていた。しかし2005年以降は南部でターリバーン等の武装勢力の攻撃が増え、治安が悪化している。また、国連以外にも国境無き医師団などのNGOやNPOが現地に入り、復興の手助けをしている。しかし、ターリバーン等はこうした外国人を狙った誘拐・殺人事件をしばしば起こしている。2004年には「国境なき医師団」のスタッフ5人が殺害され、「国境なき医師団」はアフガニスタンから撤退した[48]。2007年には韓国人23人が拉致され、うち2人が殺害される事件(2007年ターリバーン韓国人拉致事件)が起こり、2008年にはNPOペシャワール会の日本人スタッフがターリバーンに誘拐・殺害される事件が起きた(アフガニスタン日本人拉致事件)。正式政府の成立以降、アフガニスタン国軍の再建も行われている。2007年11月にはターリバーンに占拠されていたヘルマンド州ムサカラを奪回するなど、軍事的成果をあげつつある。 taketake


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成