アフガン戦争5
出典: Jinkawiki
・アフガン戦争 アフガニスタンは、南アジア、中央アジア、中国や東欧などの商業的通路の結節点となっている。そのため、早くから歴史に登場しており、様々な民族から支配を受けていた。11世紀ごろからイスラム化となり、17世紀にはアフガン人が力を持ち始めていた。アフガン戦争は、アフガニスタンを舞台とした戦争であり、イギリスとアフガニスタンとの間で3回にわたって戦われた戦争のことをさす。最初の2回は、インドを支配していたイギリスと、中央アジアからの南下を図っていたロシアとの対抗の中で起こった。ロシア軍は、実際に侵入はしなかったが、アフガン君主がロシアに接近しようとしていると疑いを持ったイギリスが、アフガニスタンに攻め込んだのだ。 ・第1次戦争(1838~42) イギリスは、ロシア帝国の南下政策に対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求した。ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。これに対し、イギリスのインド総督であるジョージ・イーデンはドースト・ムハンマドの権力掌握を嫌い、旧王家サドザーイー族のシュジャー・シャーと、彼と同盟するシク教国のランジート・シングを支援して1838年にアフガニスタンに対し宣戦を布告した。1839年1月にイギリス東インド会社軍は、クエッタからアフガニスタン領内に入るなり、カンダハール、ガズナ、カーブルを次々に占領していった。国王のドースト・ムハンマドはブハラに亡命した。1840年には帰還して再び抵抗したが、イギリスに敗れて投降した。しかし、バーミヤーンでバーラクザイ朝の勢力が抵抗を続け、アフガニスタンの各地で侵入軍に対する反乱が勃発したため、1842年1月、カーブルに駐留していたイギリス軍は撤退した。その際、冬季の峠越えとアフガン兵の襲撃により、兵士・人夫計1万6千人が全滅し、イギリスが擁立したシュジャー・シャー国王も殺害された。その年の秋にイギリスは、報復のために再び派兵し、カーブルと周辺の村落で破壊を行ったが、この作戦を最後に戦争の継続を断念し、英領インドに捕らえられていたドースト・ムハンマドの帰国と復位が認められ、第一次アフガン戦争は終結となった。
・第二次戦争(1878~79) 第二次戦争では、西北インドの支配を強化することと一緒に態勢を立て直して臨んだ。イギリスは軍事的には損害を被ったけれど、外交戦術で新王であるアブドゥル・ラフマーンを取り込むことで、アフガニスタンを保護国とした。1878年7月にロシアがアフガニスタンに使節を送ったところ、シール・アリーは拒絶しようとしたが、結果カーブルへの到着を許してしまった。この出来事に対して、イギリスのインド副王ロバート・ブルワー=リットンが送った使節が国境で拒絶されるという事件が起こった。イギリスのベンジャミン・ディズレーリ内閣は、ロシアのアフガニスタン進出を恐れ、強硬姿勢をとることを決めるとともに再びアフガニスタンに宣戦を布告した。11月にイギリス軍は、ペシャーワル方面、クラム方面、カンダハール方面の3手に分かれてアフガニスタンへ侵攻を行った。戦闘はイギリス軍の優勢で進み、カーブルなどを占領した。その後、ヤアクーブ・ハーンがイギリスに屈して1879年5月15日にガンダマク条約を結ぶことになった。東南部の割譲とイギリスに外交権を譲り渡して保護国となることを認めたが、アフガニスタン側の反抗が強くイギリス軍は苦戦を強いられた。1880年7月27日、マイワンドの戦いで、アイユーブ・ハーンに大敗を喫するなど、イギリス軍は大きな損害を受けたが、9月1日のカンダハールの戦いでアイユーブ・ハーンを撃破し、1881年までアフガニスタンへの駐留を続けた。結局イギリスは、新王が勢力を増してきたので交渉相手として妥協することにし、外交権はイギリスに委ね、保護国となることを認めさせた。イギリスの面目と当初の戦闘目的を果たすかわりに、庇護を与え、自立支配を許すという条件で撤退することになった。国境はガンダマク条約のものが踏襲されたので、現在のアフガニスタン・パキスタン国境線に確定することになるが、これによってアフガン人の居住地がふたつの国家に分断されることになった。
・第三次戦争 イギリスの後ろ盾を得たアブドゥッラフマーンはアイユーブ・ハーンを追って統一を回復し、続けてアフガニスタンの近代化に乗り出し、ハビーブッラー・ハーンもその政策を継承した。1919年、ハビブッラーが暗殺されると、アマーヌッラー・ハーンが即位を宣言した。アマーヌッラーは第一次世界大戦によってイギリスの勢いが衰えたことを好機ととらえ、イギリスに対するジハードを唱えた。5月3日、カイバル峠の国境に軍を進め、領内のパシュトゥーン人が呼応して反乱を起こすことを恐れたイギリスのインド帝国当局はイギリス軍を動員して、第三次アフガン戦争が開始した。5月11日、第1インド歩兵師団は、ハイバル峠のアフガン軍を攻撃して、これを敗走させた。同じ日に、イギリスの航空隊がジェラーラバードを爆撃したことによって、この方面のアフガン軍は完全に力を失った。しかし、5月23日にインド領内に侵入してタリ駅を占領し、イギリス軍2個大隊を包囲した。6月1日ダウエル将軍の歩兵旅団が反撃に転じ、アフガン軍を撤退させた。第三次戦争が始まったきっかけは、アフガン軍がイギリス領に攻め込んだことであった。ところが思うような結果が得られなかったことに加え、イギリスが空爆を行ったことやインド帝国側のパシュトゥーン人の支援も満足に得られなかったので、開戦してすぐに戦線は膠着した。5月末にアフガニスタン側は停戦を申し入れて、イギリスも戦争の長期化を嫌っていたので、これに応じて6月3日に休戦した。第三次戦争の結果、アフガニスタンは8月8日に結ばれたラワルピンディー条約で外交権を回復して、完全独立を達成した。
<参考> 「山川 世界史小辞典」改訂新版 「マピオン大百科」http://pedia.mapion.co.jp/art/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
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