アフガン族の反乱
出典: Jinkawiki
1709ー26 17世紀、今日のアフガニスタンの大半はサファヴィー朝ペルシアの支配下にあった。1709年、サファヴィー朝の弱体化に乗じてギルザーイ・アフガン族がカンダハールで蜂起し、ペルシアの長官を追放してアフガン民族による独立国家を樹立した。1711年に、ペルシアの大軍がカンダハールを包囲したが、アフガン族の突撃隊に蹴散らされた。その後もペルシアはカンダハール攻略を試みたが、いずれも失敗に終わった。1717年、アブダリ・アフガン族がヘラートで反乱を起こし、同市を奪うと、ウズペク族と結んで周辺地域を略奪した。1719年、ヘラートの奪還をめざして3万人からなるペルシア軍が派遣されたが、アフガニスタン軍に翻弄されて敗退した。1721年から1722年にかけてギルザーイー・アフガン族の大軍がペルシアに侵攻、ケルマーンとシーラーズを奪い、さらにペルシアの首都イスファハーンをめざして進軍した。ペルシア軍はこれを食い止めることができず、アフガニスタン軍はその後6ヶ月にわたってイスファハーンを攻撃して、1722年10月に降伏させたが、すでに市民は飢餓寸前の状態だった。サファヴィー朝の弱体化はロシアやオスマン・トルコの侵攻をも許し、オスマン・トルコはペルシア西部の一部を占領した。さらに、ペルシアの内戦が、混乱にいっそう拍車をかけた。アフガン族は1725年にテヘランを奪い、1726年にはロシアおよびオスマン・トルコとそれぞれ戦って勝利をおさめ、絶頂期を迎えたかのように思われたが、突如あらわれたナーディル・クリー(1688-1747)の率いるペルシア軍が勢力を盛りかえし、アフガンの解放はナーディル・クリーの暗殺までまたなければならなかった。
サファヴィー朝…1502年イスマイル1世が創始し、1736年アフガン人によって滅ぼされたイスラム期のイラン民族王朝。
参考文献 『世界戦争事典』2014 ジョージ・C・コーン 河出書房新社
『世界史事典』1995 平凡社教育産業センター 平凡社